東京大空襲

どうも鯉の子です。
本来はこちらを掲載しようと準備していたのですが一生に一度あるかないかの事件だったので下記を優先掲載しました。ご了承下さい。
今日は東京都の下町を中心に米軍が絨毯爆撃を行った東京大空襲忌念日である。さて今回は実際に被災した話と志木市から見た大空襲の様子を親戚の話を通じて要約し紹介していきます。


志木市から見た東京大空襲
『午前0時半過ぎ突然親戚のおじさん()が家に飛び込んできて「おい!東京が空襲に遭っているぞ!」と叫んできたもので当時小さかった私は母におぶされながら完成間もなかった荒川堤防へ行くと荒川下流域がまるで昼間の様に明るく空から数多くの火の粉が降り注いでいました。「母さんアレ何?」と聞くと親戚のおじさんが「あれは焼夷弾と言って家屋を火災にするのに有効な爆弾でな、下町方面は木造家屋が多いからあの爆弾をつかったんだろうな。アメ公も考えたもんだ。」と話していると突如空襲警報が鳴り響いた。東京方面からB29が向ってきているとの情報が入った為警報がなったみたいだ。おじさんは近くに止めていた自転車で「空襲警報発令!灯火物は至急消火せよ!」と首から下げていたメガホンで言いながら朝霞市宮戸にある高射砲台に行ってしまった。警報がなっている以上急いで自宅に帰り防災頭巾をかぶり庭ある防空壕へ避難すると「グォングォン」と大量のB29が上空を通過して行ったが爆撃も何も無く行ってしまった。』


墨田区から見た東京大空襲
『それは私が疎開先の岩手県から帰ってきてから起きた人生最悪の日である。
9日夜に突然空襲警報がなり浅草通りにある銀行()に避難したがすぐ解除され「今日はもう無いだろう」と近所の人と話しながら自宅に帰り床に就いた。10日午前0時過ぎ、突然複数の爆撃音で目覚め外を見ると深川方面が火の海に包まれていた。その後空襲警報が発令されたのと同時に上空からまるで無数の流れ星の様に爆弾が降り注いできた。私と家族は家を急いで離れ、銀行へ避難した。銀行の外は真っ赤に燃え上がり次から次へと避難民が流れ込んできた。私達はこのまま押しつぶされるのを恐れ銀行の裏戸から四ッ目通りを通り錦糸公園へ避難した。すると錦糸公園はなぜか人がまばらだった。そのまま1夜をあかし朝周りを見回しても残っているのはコンクリート造の建物のみで自宅も友人の家も何にも無くなっていた。しかもその錦糸公園の地面には無数の焼死体が転がっていた。後に聞いた話で錦糸公園一帯で炎の竜巻が起きて一瞬でココは火の海になったそうだ。もし直に錦糸公園に向っていたら私もこの炎の竜巻に飲み込まれていた。』

私もこの2つの話を聞いたとき背筋がゾッとした感じを覚えている。東京大空襲を語る人が年々少なくなり遠い過去の記憶になってしまっているのは事実であるがその実体験をいかに我々に遺し語り継いでいくか…

※親戚のおじさん…私の祖母の親戚。地元の自警団で隣組を指揮っていたらしい。
※避難所の銀行…当時では珍しいコンクリート造の銀行。火災に強いとの事で避難所になっていた。