郷土史研究21

どうも鯉の子です。
さて突然ですが、和光市在住の友人S曰く、
和光市は東京都であり、埼玉県には土地を借りているだけである。」となんとも良くわからない事を言っている奴なのですが、さらに聞くと
和光市の住民の殆どはそう思っているし、それが常識である。」と言っていますが、志木市民として本気でそう思っているととらえますが、和光市民の方々よろしいでしょうか?
まぁそんな会話から思い出した事があるのですが明治時代に今の、志木、朝霞、新座、和光、は東京編入を目論んでいた記述が残されており、これも何かの縁と思い今回の郷土史研究は『東京への編入運動』を紹介します。

東京への編入運動と志木町

古代から近世にかけ、埼玉県志木、朝霞、新座、和光市の4市と東京都保谷市練馬区大泉学園町一帯を新座郡(にいくらぐん・にいくらごおり)と呼び、小さいながらも1つの郡を形成していた。なおこの郡の前身が新羅郡」(しらぎぐん)でさらにその前身は入間郡とも豊島郡とも言われまた広大な空き地で、ただの集落が点在していたとも言われているが、はっきりした事は不明である。
こうした歴史的背景もあって、明治以降は2回にわたり東京編入運動が展開された。
1回目は明治24年に起きた。これは明治23年の第一回帝国議会に「郡分合ニ関スル法案」が提出されて以来、全国的に小さい郡が大きい郡に統合される方向に進んでいた。丁度その頃に当時の埼玉県知事が内務省に対し新座郡北足立郡に統合する事に全く問題ない。」と言う上申に対し反発が起きたと言える。
東京都への編入の理由としては、新座郡北足立郡は荒川によって隔絶され、風俗、民情、方言など同一ではないのに、北豊島郡とは交通、文化共に親密である。その上低地で水害が多い北足立郡と合併したのでは、水害に無縁な高い土地の新座郡民は水害の費用を払わされ不利である。」
特に東京府編入に意欲的だったのが当時最も栄えていた志木町で、内務省、埼玉県、東京府に提出した請願書の実に86%は志木町の住民だった。しかし請願も空しく実際に編入されたのは新座郡榑橋(くれはし)村(現、東京都練馬区大泉学園町保谷市)で他の町村は埼玉県北足立郡編入されてしまった。
その後も昭和8年から13年にかけて、志木町を中心に東京への編入運動をしていたが、いずれも埼玉、東京の知事の反対声明によってかき消されてしまう。

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それで平成の世。志木市の無念を引き継いだ和光市が、東京都編入を目論んでいるのである。まぁ要するに、和光市の東京都編入癖は志木市譲りである事がこれで分かってしまった訳ですが、今更、県→都への編入なんて出来ないと思いますが…。諦めてくれたまえ。諦めて朝霞班4市で合併しちゃいましょうよ…ねぇ…。