郷土史研究28

どうも鯉の子です。
いやはや寒い日が続いていますが、さて大学の近所を流れる『元荒川』がいかにしてとなってしまったのか。
と言う訳で今回の郷土史研究は関東平野の瀬替え』を発表します。ではどうぞ。

関東平野の瀬替え

そもそも瀬替えとは、川の流れを変える事であるが、荒川を始め関東平野の大規模河川は長い間自然的・人工的問わず瀬替えが行われていました。ここでは江戸時代に行われた人工的な瀬替えについて紹介いたします。
江戸時代以前の荒川は、利根川と合流し東京湾に注いでいました。この二大洪水常習河川(自称)が合わさる地点では、大雨が降ると洪水の被害にあっていました。
1590(天正18)年に徳川家康が江戸に入府した時、家臣の伊奈忠次を関東の代官頭として関東平野の治水事業を命じて河川の改修に着手しました。のちに伊奈忠次の次男である伊奈半十郎忠治が治水事業を引継ぎ、荒川と利根川の大規模な『瀬替え』を行いました。
1629(寛永6)年に現埼玉県熊谷市久下付近を流れる荒川を、和田吉野川に流れを変えるべく荒川〜和田吉野川間に『新川』を開削しました。これを、『荒川の締切』と言います。それまで春日部市方面を流れていた荒川が、川島町→川越市志木市川口市東京湾の流れに変わりました。これを『荒川の西遷』と言います。旧流路は『元荒川』と言う名称として残っており、絶滅危惧種である『ムサシトミヨ』が生息しています。一説では、瀬替えした流路が古墳時代の荒川の流路であると言う説があり、この説を採用した場合約900年振りに流路が戻った事になります。
また、利根川も瀬替え工事を行っており、それまで常陸川が現在の銚子市まで流れていた流路を利根川の流路にする為に、利根川に新川(赤掘川開削)を掘り、それまで東京湾に注いでいた流路を太平洋に注ぐ流路に変わりました。これを利根川の東遷』と言い、1654(承応3)年に完成しました。
これらの河川改修により、関東平野の洪水被害を軽減し新田開発の促進、江戸と郊外の舟運の開発も生まれました。

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江戸時代以降も流路を直線化して洪水の抑止など細かい事が行われています。志木市内で見ると新河岸川で行われた新河岸川改修』(関連項目:郷土史研究24−2011-11-05)と特殊な事例で河川改修された秋ヶ瀬取水堰(関連項目:郷土史研究16−2011-07-17)ですが川の方向性を替えてしまう『瀬替え』は今現在では行われないものでしょう。近いものでは明治43年の大洪水』(関連項目:郷土史研究−2011-10-23)で行われた荒川放水路事業』が代表例でしょう。