郷土史研究29

どうも鯉の子です。
今、城や歴史的有名人がいる地方自治体では男性のイケメン化や女性の ようじょ 低年齢化など所謂鷲宮効果の幻想』と私は言っていますが、第二・第三の鷲宮はもはや現れないだろうと思っていますが、さてそんな大きな城も無い(小さい城としては、柏城がありますがまた今度)志木市では、とある合戦が行われていました。そう言う事で今回は『羽根倉古戦場』を紹介いたします。

羽根倉古戦場

宗岡を含むこの地域一帯は、南北朝時代の観応二年(1351年)12月19日、現在の富士見市下南畑にあった難波田城城主『難波田九郎三郎』と現在の日高市である高麗の住人『高麗彦四郎経澄』が対戦した場所である。
当時、室町幕府では将軍足利尊氏と、弟の足利直義との間に反目が続いていた為、関東の武士団もそれぞれ両派に分かれて互いに争っていた。
当初、高麗経澄は直義方に属しており宇都宮氏討伐の為、現在の栃木県である下野に下向の途中、尊氏側に寝返る事になった為に直義党の根拠地『鎌倉』の攻略に転じた。
観応二年(1351年)12月17日、武州鬼窪(南埼玉郡白岡町)に兵を挙げると、鎌倉街道を一路、現在の東京都府中市である府中へ向って進撃してきた。それを直義側の難波田九郎三郎が、この羽根倉の地で迎え撃ったのである。
合戦の戦果は難波田勢の敗北に帰し、九郎三郎をはじめ多くの部下が討ち死にした。

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突如寝返った高麗氏を迎え撃つ為に闘いを挑んだ難波田氏でしたが、突如ともあり準備不足だったのではないでしょうか?この古戦場は難波田城から約2kmぐらいの距離しかない事や、迎え撃つ際の防御柵が設置されていない事を考えると、戦をするには非常に不利な戦況だったと考えられます。

 

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