郷土史研究42

どうも荒川鯉師です。
twitterでもつぶやきましたが、このブログで紹介している郷土史研究がとある掲示板に載っていまして、驚きと同時にこの研究史が引用されたと言う意外さにただただ情報発信の責任義務と信用情報の掲載義務を改めて認識した次第でございます。私にとってよい機会だったと思います。
と言う事で、今回の郷土史研究は今年の2月末に解体されてしまう志木市最初の歩道橋『志木歩道橋』を紹介致します。

志木歩道橋

1954(昭和29)年8月11日に一般県道新座川越線(以下 防衛道路)が完成すると、それまで志木小学校の通学区域である本町一丁目・柏町全域がこの防衛道路によって分断されました。折りしもこの時代は『交通戦争』と言われ、日清戦争での日本人死者数を上回る交通事故死者数となりました。その原因は戦争復興の要である「トラック」などの商用車の増加に加え、当時の道路交通法による規制・取り締まりが不十分であった事。更に信号機や横断歩道・歩行者専用歩道の整備が不十分であった事が挙げられる。
そうした背景を基に、埼玉県と足立町(現 志木市)は分断された柏町全域と本町一丁目地区を自動車と交わらない車歩分離式を実現させる為、1967(昭和42)年、志木小学校西側交差点に足立町(現 志木市)で最初の歩道橋『志木歩道橋』を完成させました。この歩道橋によって自動車と歩行者の接点が生じず、安全に通学する事に成功しました。
その後も通学路として歩行者の通路として機能しましたが、1975(昭和50)年4月1日に志木市立第三小学校が開校すると、防衛道路を挟んで志木小学校と志木第三小学校の通学区域が分かれ、通学区域としての歩道橋の機能を失いました。歩行者の通路としての歩道橋の機能は継続されましたが、道路交通法の規制と取り締まりが強化され、信号機や横断歩道・歩行者専用歩道の整備によって歩道橋の利用者が年々減少し更に築46年が経ち、錆などによる老朽化も顕著に表れ始めたので、2013(平成25)年2月末に志木歩道橋は解体される予定でその役目に終止符が打たれようとしています。
埼玉県と志木市・朝霞県土木整備事務所は志木歩道橋の解体後は、信号機と横断歩道が設置されると公示されています。