郷土史研究8

どうも鯉の子です。
今回は三度の悲運に見舞われた神社を紹介します。
浅間神社
当神社は志木市上宗岡の浦和所沢バイパス(以下浦所B)の真横にあります。まずはこの神社の歴史から見て行きましょう。
征夷大将軍源頼朝は富士山の麓で巻狩り(鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて射止める大規模な狩猟の事)を行う際、勢子(前記カッコ内にある〜多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を追いつめて〜の追い詰める人の事)を命じられたがその代償として宗岡の里人達に年貢の免税がなされた。里人達はこれを記念して字大野(荒川堤外、細田学園ソフトボール場周辺)に祠を建てて富士浅間社を創建し祀ったと言われている。
その後荒川が大洪水に見舞われた際、その祠が字羽根倉(荒川堤外、羽根倉橋付近)にて発見され、
「あの大洪水を上りになりここに居られると言う事はきっとここに住みたいに違いない。」と里人は考え字羽根倉で祀る様になった。明治に入り信仰が一層強くなると境内に高さ10m程の富士塚を築き登山道など実際の富士山に似せて造り富士山の溶岩を設置し、頂上には浅間大神を祀った。
しかし大正9年前後に荒川河川改修及び堤防(横堤含)の築提工事が始まると浅間神社は家曳と呼ばれる移動方法で移築したが昭和48年に浦所Bの建設の為にこれまた家曳を行い現在に至っています。洪水による流出、大正の河川改修、昭和の浦所B築道と3度の移築がなされたが信仰が絶える事はなかった。ここまでの過程で信仰が失われなかったのは氏子衆の信仰の強さを物語るものである。』

志木音頭にある『乀西と東にぃ〜西と東にぃ富士の山ぁ〜』と言う一文があるのですがあれは敷島神社の富士塚と本物の富士山かと思っていたのですが志木市内で考えると敷島神社富士塚(市内西)と浅間神社富士塚(市内東)と言う意味合いも持ち合わせているかも知れませんね。

ここまで信仰が強かったらきっと守矢神社は幻想郷に移動はしなっかたのに…惜しい事をしたもんだ。私のよm[削除されました]



横堤についてならココ
敷島神社についてならココ
守矢神社についてならココだけど外部リンクだから気ィつけや