郷土史研究13

どうも鯉の子です。
本日は水塚について紹介しますが1から10まで話してしまうととんでもない行になるので概要のみについて説明したいと思います。
水塚
『水塚(みずか)とは屋敷内の一部を土盛りし一段高くしてその上に建物を建てた後、米、味噌、寝具、など数日間過ごせる様にして洪水に備えた水防施設。ですが水塚の文化誌(発行:NPO法人 志木まるごと博物館 河童のつづら)によると「水塚(みづつか)とは洪水の時、浸入を防ぐ為に、屋敷内の一部または農家の周囲に築く土手。」とある様にみづかみづつかは同じ様で違う意味を持っている。
そもそもなぜ宗岡地区に水塚が必要なのか?それは宗岡の東側には古くからの暴れ川である荒川があり、西側には当時九十九曲がりとして有名な新河岸川がありどちらも大雨が降ると大洪水を起こし被害を出して来ました。そんな毎年訪れる洪水に備えようと数多くの水塚が出来て行きました。
宗岡に点在している水塚は私が見た中では土蔵が大半を占めておりその中でも土壁、切石、レンガ、漆喰塗りと様々で単に「水塚」と言えども姿形は違って見える。そんな水塚を大学生目線で見ると建築工法は漆喰で塗り固めた土蔵造りや単に土壁の土蔵。納屋や小規模住宅に多く見られる真壁造りと呼ばれる間柱が外に見える建築工法(逆に間柱が隠れているのは大壁造り)でした。また屋根の形式としては切妻屋根と言う大棟(住空間の一番高い部分)の両側に葺きおろす形の屋根の事です。上記資料本には他にも土蔵造の置屋根型と言われる特殊建築も採用されていると記載されておりまだまだ知らない事ばかりです。
また水塚と江戸時代に築堤した堤防(佃堤など)が一体化している所もあり一説には堤防を通じて水塚と水塚を行き来出来る様にしたとも言われています。宗岡地区にある神社の半数以上は土盛りした上にあり社寺もまた水塚と同じ役割をなしていたのではないのでしょうか?天神社(中宗岡)や上ノ氷川神社(上宗岡)、下ノ氷川神社(下宗岡)なども人工的に土盛りした高台に構えています。こうした点から昔の人は水害への備えと心得を見る事が出来ます。
しかし現在では大洪水と言ったものは無くなり水塚も只の倉庫へ成り下がっているものが増えてきています。自然事象で壁や屋根の崩落、ひび割れてしまっているのも少なくありません。また水塚そのものを解体してその土地を新たな住宅地へ姿を変えている所もあります。今後水塚は減少していき何時かは無くなってしまうのも時間の問題かも知れません。この貴重な水防遺構を永く残してほしいと願う反面、その家々の事情で壊されざるおえないのも事実です。』

…長ったらしい文章を打ちましたがこれでも削った方なんですよね。途中文章の流れがおかしい所もありますがまぁ無理矢理削ったんだなぁここ。って思っていただけたら幸いです。Wikipedia内の『水塚』も私が書き始めたんですが色々な方が加筆をしていただき正直うれしかったです。今後内容の濃いものになって行ってほしいなと考えています。
今の小学生の授業の総合学習の中で郷土史の授業ってあるんですかね?私の時にはありましたがやはり一番人気は『野火止用水』『本町通りの蔵屋敷』『志木市の伝承』が大半を占めていたのを覚えています。あぁ誰か水塚を調べる子はいないかなぁ?逆に当たり前過ぎて調べないのかなぁ?そこの当たり前に疑問を持つ事が重要なんですがね。そんな事小学生に求めても致し方ないですが…。別に中学生でもいいんですよ。

〜写真説明〜
写真上…江戸時代の堤防(佃堤、舗装された道路部分)と同じ高さにある水塚。
写真下…二つ並ぶ水塚。写真手前奥にも一軒の水塚がある。