郷土史研究19

どうも鯉の子です。
いやはや約1ヶ月振りの郷土史研究ですが、「お待たせしました」と言う言葉を載せても良いのかどうか、そもそもこんなブログを見てくださる方もいるのかどうかも不思議な話ですが…
と言う訳で今回は志木市を流れる新河岸川の際にある『赤稲荷』について紹介いたします。

赤稲荷

『創建は江戸時代末期、屋号川端の社として創建されました。本殿を覆う覆屋が朱塗りの為、赤稲荷と呼ばれる様になった。
この稲荷様は、新河岸川の舟運が栄えていた時期には、朱塗りの社が新河岸川を航行する船の良い目標になっていた事から、航行安全・水難守護の稲荷社として船頭衆から厚く信仰されていたが、実際には倉稲魂尊と言う農耕・商工の神様が祀られているのであながち間違いではない様である。(まぁ神様は信仰すれば増えますが…)
他にも別名として、『夜泣き封じの稲荷様』として知られていました。祈願方法としては、まず赤稲荷に向かって「宅地内の土を必ず倍にしてお返ししますので、この児の夜泣きをどうぞお治し下さい。」とはっきりと申した後、境内の土を1握り頂戴するのである。その後、その土を綺麗な半紙に包み、夜泣きのする赤ん坊の枕下に置く。そうすると、稲荷様の霊験によって赤ん坊はそれ以降、夜泣きをする事なく安眠するのである。
稲荷様の効験に感謝し、お礼参りに向うのだがそこで忘れてはいけないのが、『お借りした土と借りた土の倍の宅地の土を包む事』である。ここで注意したいのが、借土と宅地土を一緒にしてはいけない事である。混ぜてしまうとさらに夜泣きがひどくなると言う話も残されている。さて持参した宅地土は、社の周りに納め、借土は借りた場所に戻すのがお礼参りの習わしである。
現在では、この稲荷の謂れや民俗は時代を追う毎に知る人も少なくなっており、様々な原因があるが、この稲荷社を説明する看板や石碑は皆無であるのも原因の一つかもしれない。』

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同じ夜泣き封じ稲荷として、泣虫稲荷があるが現在コチラは幻想入りしてその姿は見ることが出来ない。やはりこちらも同じく説明する看板や石碑がなく、本殿を保護する覆屋もなかったので腐食が進み、解体の一途を辿ってしまったんでしょう。
まぁ赤子はこの稲荷の霊験により夜泣きがなくなると言っていますが、確かに藍様狐様の尻尾ってなんか気持ちよさそうですよね。もふもふしていて、ほんじょそこらの布団なんかより格段にいいですよね。でも私は八雲紫サマの膝まくrピチューン…。