郷土史研究30

どうも鯉の子です。
2月9日付けのブログにおいては万人がドン引きする内容となりましたが、謝る気はありませんし反省もしていない。事実ですんでね。(キリッ
さて今回の郷土史研究は、志木市市役所の前にある『村山快哉堂』と言う事ですが、実は昔からあそこにある訳ではありません。あそこには確か木材屋と農機具屋があった様な気がするんですよね。燃料屋は市場坂上の途中でしたから…
さて、記憶も曖昧なままですが、郷土史研究『村山快哉堂』をどうぞ。

旧村山快哉堂薬局

この旧村山快哉は、明治十年(1887)に建築された、木造二階建て土蔵造りの店蔵で市場通り(現本町通り)に面して屋敷を構えていました。この店では『中風根切薬』『分利膏』『正齋湯』などの各種家伝薬を製造・販売する薬局でした。
村山家は創業以来、平成五年(1993)まで七代にわたって薬屋業を営んでいましたが、平成六年(1994)に建物を取り壊す事になった為、志木市教育委員会が所有者(当主:村山源博氏)との協議の上、この店蔵を寄贈して下さいました。平成七年(1995)に解体工事が行われ、その後四年間の保存・修復・調査期間を経て、志木市役所前の広場『いろは親水公園中州ゾーン』(材木・農機具店跡地)に約二年間の歳月をかけて移築・復元したものです。
調査の結果として、店蔵の建築年代は欅(ケヤキ)の通し柱に墨書きされていた『明治十年丑十一月十二日建之』と言う文字が発見されました。また漆喰壁に関して、開業当時は白漆喰の壁でしたが明治後期頃に黒漆喰仕上げに改修された跡も発見されました。
建造物の形態としては、店蔵が座売り(店内と外に段差があり、店主が座ってモノを売り、客の要望で店主がモノを渡すと言う方式)形式の商形態を残している点や、全国の店蔵には少ない一階中央部に開けられた吹き抜けと滑車(二階倉庫へ運ぶ為と言われている)、鉢巻の二段構成やムシコ窓及び開口部の枠周りなど、川越の店蔵とは異なる特有の意匠構成がみられる事から志木市教育委員会は、平成十三年(2001)12月27日に志木市有形文化財として登録されました。
この建造物を裏から見ると母屋へ繋がる扉が2ヶ所ありますが実はこの扉、明治時代の身分制度を色濃く残しています。家族の中で身分が低い人、妻、姉妹、長男以外の兄弟は全て向って左側の土壁引き戸を使い、身分の高い人、夫、長男、そして来賓した方が向って右側の土壁観音扉を使用しました。また、身分の高い人が板の間を歩き、身分の低い人は和三土(タタキ)と言われる土間を歩いて母屋まで行きました。
この店蔵の柱は、前記にも記した様に『欅』を使用していますが梁には『松』が使用されており『二重梁』となっております。松とは、皆様もお分かりの通り非常に癖がある木で、梁にするには非常に難しい木であります。そこを当時の大工は出来る限り癖の少ない松を厳選し使用しており、現在では国産建築資材用松ほとんど見られませんと言いますか使えません、癖が多くて…。また柱・梁の加工に釿(ちょうな)が使用されていた事が確認されている。

                                                  • -


志木市は、新河岸川により舟運の恩恵を受けて今では考えられない様な繁栄をしていました。当時の広告を見ると、『志木町の周囲にある伸銅業は―』と紹介されている。それくらい『志木』と言う名前が有名であったかが伺えます。逆に今では志木市内にある工業・製作所の多くが『和光支店・朝霞支部と言った風に名前を借りている所が多くあります。それだけ舟運がなくなったショックが大きいという事なんですよ。まぁ確かにかつての繁栄を残しているのが東武東上線 志木駅快速急行停車』と言う事ですかな?人が多い=快速急行が停まる価値がある、と言う事ですからまぁ志木繁栄の名残は奇しくもお役を盗られた志木駅に残っていると言う事になります。
現在コチラは、一般開放されており金曜日〜月曜日の午前10時〜午後4時まで入館無料で見学できます。また、10人以上の団体様は事前に志木市教育委員会生涯学習『048-473-1111』(内線:3132、3143)まで電話をして頂いた方が無難です。なお、講演会や展示会などの学術及び文化振興の発展・普及の為に有料ではありますが(10時〜正午:200円 13時〜16時:300円)されますのでご注意下さい。また、暴力団排除条例に伴い構成員を主とする団体には通常使用料に50%加算されます。
と言う無難なまとめを致した訳ですが、この様な商業蔵の内部を細かく見ることはなかなか無い事なので、興味のある方はぜひとも見学に来て下さい。