郷土史研究32

どうも鯉の子です。
一生に一度の住宅を購入する目安が、東日本大震災を期に『海沿いの綺麗な土地』よりも『地盤の強い土地』へと移転する動きがあり、志木市も例外なく転居者が3月1日現在で前月より23世帯多く引っ越して来ている所からも『強地盤』への関心が強いと考えられます。
と言う訳で志木市に存在する台地武蔵野台地と低地『荒川沖層地帯』の間に位置する崖『北部河岸段丘を紹介致します。それではどうぞ。

北部河岸段丘

埼玉県志木市を含む埼玉県南西部には武蔵野台地があります。そもそも武蔵野台地とは、関東山地から流れている多摩川扇状地を基に、富士山の噴火に伴う火山灰が粘土化した関東ローム層武蔵野台地を形成している。
その後、多摩川はほぼ現在の流れに落ち着き、埼玉県の中央部を流れる荒川が武蔵野台地を浸食していった。その侵食された所を河岸段丘と言い、高いところで数10mにも及ぶ高さがあり、我々低地に住んでいる者としてはなかなか難所となる所です。この崖の事を地学用語で『崖線』と言います。また武蔵野地方方言としてハケ』『ママ(まま)と言います。私も普通に「宮戸のハケにある宮戸神社…」と言っていたので方言だと気付いたのが、この郷土史を調べてからでして、なかなか驚きました。
志木市下宗岡から新宮戸橋を渡る途中、見事な崖線を見る事が出来ます。(写真4)この地域一帯の崖線の事を『北部河岸段丘と言い、この浸食原因は、新河岸川・柳瀬川・黒目川の浸食による段丘ではなく、多摩川の旧流路跡と言われているのは以外に知られていない事実である。(え?高校で習った?それは言わない約束で)そんな北部河岸段丘は、朝霞市浜崎で一旦入り江の様な感じに入る所の尖端(写真1)から北に進むと2本の分かれ道にでる。(写真2)この下を行けば崖線を見る事が出来る。(写真3)
今ではたかが低地・台地と言う風にしか分からないものだが、土地名に表れている事を御存知だろうか?今回は、今でも昔海だった事がわかる地名を紹介しよう。

これらの地名を実際に行って見てやはり、地名の付いている所には崖(坂)がある事を確認してきました。やはり昔海だった所は地名に残る訳ですね。因みに志木市宗岡地区の宗岡は、海に囲まれていた時代に自然堤防で出ていた部分が人の胸を想起させる所からの説(胸岡説)とその自然堤防の形が家の棟を想起させる所からの説(棟岡説)や豪族『宗岡氏』とありますが、まぁ棟岡説が最有力と見て良いでしょう。

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一般の方から見ればただの『坂』と言う事で片付くが、地学知識人から見れば坂も『教材』となる訳でして、私も一時期『地学』の方を勉強した事もありました。
高校時代の地学担当先生が言った言葉「地学って人気が無い授業なんだよね。」って言っていましたが、そんな事は無いと思うンですよ。(個人比)何でココに坂があるのだろうか?どうして谷があるのだろうか?なんて思いませんかね?まぁそもそも自分は他の奴らとは考え方が違う人種でしたからね。