郷土史研究32.5

どうも鯉の子です。
さて郷土史研究31の続きですが、この崖線に作りやすいものってなんでしょうか?そうなんです、横穴ですよね。と言う訳で戦時中に各地に作られた防空壕が未だに残っているのがこの武蔵野台地崖線だって事は以外と知られていない事なんですよね。因みに写真4の家が建っている部分。そこに連合軍爆撃機を撃ち落とす為の『高射砲台』が3〜4基あったなんて話しを聞いた事がありますが、確証出来る資料が無いので、話しはココまでにしときましょう。
さて、崖線に残る防空壕の旅。最初は写真2の所に行きまして、坂を上って下さい。すると途中左手にお目当ての防空壕が現れてきますが、何時かの日野市で発生した『児童防空壕不法侵入酸素欠乏症事故』(仮称)によって全国の自治体で防空壕が埋め戻されたり、『国土交通省特殊地下壕対策事業』によって埋め戻しに拍車が掛っています。ここの防空壕も例外に洩れず下半分以上に土嚢が積まれ、上から土がかけられ(崩れたか?)人が入れない様になっています。
さて次は、郷土史研究⑤(2011-02-17)でも紹介した様に、敷島神社富士塚の裏にある『人穴』と呼ばれる穴ですが、こちらも戦争中は防空壕として利用していたと言う話しが多く残っているので、間違いないでしょう。
親戚などから聞いた話で、宗岡地区の防空壕は各農家の裏庭や水塚の下・竹林や防風林の中などに作ったと言う話しを聞いた事がありました。特に竹林は根が多方面に張り巡らされていて、土が崩れにくく強固だったと言う話しもありました。他にも水塚の建物1階部分に竪穴を掘り、水塚を『水防・防空施設』として使った家もあったそうです。確かに火に強く、周りを防風林に囲まれている点からでも有効と言えるのではないのでしょうか?
今ではその親戚の家は『和光富士見バイパス』の道路予定地にあたった為、立ち退きの時に更地になってしまいました。その立ち退きをする時までその親戚宅には防空壕が残っていました。立ち退きするまではそれを『室』として利用しており、野菜や米などを保存していたそうです。
遠い昔に入った事があるのですが、部屋は高さ1.5m程あり、地面には竹を編んだモノが敷かれており当時としてはかなり充実した個人壕ではないかと思います。
以上、郷土史研究に匹敵する発表でしたが、まぁ崖線の継続としての話しなので31-2となりました。