郷土史研究33

どうも鯉の子です。
桜も散り始め、新緑が目立ってきた柳瀬川堤ですがそんな柳瀬川に架かる橋『柳瀬川橋梁』ですが、見た方は分かると思うのですが妙に新しい橋脚じゃなかったですか?実は昔からコンクリート橋脚ではなく実は『レンガ積み』の橋脚でした。
と言う訳で、今回の郷土史研究は、間に合わなかった史跡指定『柳瀬川橋梁』です。それではどうぞ。

柳瀬川橋梁

東武東上線は、前身を『東上鉄道』と称し1911年(明治44年)に川越町(現川越市)開設されました。そして1914年(大正3年)に池袋〜川越間に鉄道が開通した。その時からずっとレンガ橋脚が使用されているので約98年間もの間、東上鉄道・東武東上線を支えてきた事になる。しかし残念ながら度重なる洪水と3月11日に発生した東日本大震災により『レンガ橋脚の脆弱性を指摘された。
建築遺構に興味のある友人から『柳瀬川橋梁のレンガ橋脚が消える』と連絡を受け、現場に急行しましたが、時すでに遅くコンクリートの型枠が脱型された後でした。どうやら2月中に鉄筋や鋼鉄板を巻かれ、上からコンクリートを打設した様子でそのレンガ橋脚の役目とレンガのイギリス積みで見せていた美観性は失われました。ただただレンガ橋脚にお疲れ様と言いたい所です。
さてそんな柳瀬川橋梁ですが、大正3年当時では東上線で一番長い橋梁でした。まぁそれは入間川橋梁や越辺川橋梁まで出来ていませんでしたから当然と言えば当然でしょう。オールコンクリートになる前は、上部がコンクリートで下部がレンガとなっていました。また建設当時はオールレンガだった様です。(写真参照)
まだレンガ橋脚が健在だった頃の写真やまだかろうじて残っているレンガ橋脚を見てみると、四隅やレール敷設部分には花崗岩の切石で補強されており、角部や衝撃重点部における損傷を防いでいる。
さてここまではレンガ橋脚の終焉を話しましたが、実は大正3年からいままで使われ続けているものがありまして、それは『橋梁』です。橋梁の方式は、『デックガーター』方式でして、言わばボックス式の鉄の箱を造りまして橋脚の上に乗せると言う方式になっております。またこの橋梁の銘盤に『大正三年二月』と書かれており、当時から使用され続けている事が分かる。
因みに写真にある鉄道事故の写真。これは、東武鉄道が開通してから暫くたった時柳瀬川橋梁を渡っていた貨物列車が突然脱線し、柳瀬川に墜落した何の資料にもない『隠された鉄道事故なんですよね。唯一残っているのがこの写真です。

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まぁ私にとって『当たり前に残っている鉄道遺跡』だった訳ですが、今回その『当たり前』裏目に出た形となりまして、写真による資料がフィルム写真しか残っていない状況となっています。他にも急速に消えつつある『水塚』2011-05-21)の民俗史跡物など、個人の所有物であるものは、個人の判断で壊されてしまいます。それは決して悪い事ではなく所有者の考えを第一尊重しなければならないのでそこの問題も残っています。