郷土史研究35

どうも荒川鯉師です。
そう言えば最近、神社を周っていないなと気付きましたが、まぁ世間一般の人に比べれば行っている訳で、ここまで頻繁に行ってるとまたバイト先の人から『右翼!』と避けられてしまうので、(まぁ言わなきゃ良い話ですが…)回数は減らす呈で行きましょう。
と言う訳で今回は志木市内にある最後の氷川神社『館ノ氷川神社です。どうぞ。

館ノ氷川神社

この氷川神社は、素戔鳴尊を祀神として祀る。人皇56代清和天皇貞観年中(約1100年前)時の郡司『藤原長勝』氏が武蔵一ノ宮氷川神社より分社創立せるものと伝わっている。また長勝の館跡(柏城)は『長勝院』として現存する。(現在は廃寺となっている。)
当地は古くより奥州街道鎌倉街道の主街道に沿い、旅人の往来が激しく宿場を設けて『上宿・中宿・下宿』の名称を作ったと伝えられている。戦国時代に柏城が築かれ、当地の近くに城の大手門が出来た。城の守護神として崇敬篤く、毎年秋の2日間に大祭が行われた。その際に近隣の舘村(現志木市館)中野村(現同市柏町)針ヶ谷村(現富士見市針ヶ谷)北野村(現新座市北野)の総鎮守として氏子の尊祟篤く『舘の郷』の名之に始まる。御神体木像二体が安置されている。

社殿は慶安五年茅葺より板葺に改築し、亨保十四年徳川吉宗時代に拝殿の増築を行い形態を整備した。寛永六年に社殿の大改装が行われ、神殿は総檜造りにて舘村名工『高野満寿五郎』の製作と伝わる。これを記念して、『総鎮守氷川大明神』の碑建立し、この時に社務所も建設された。
明治四十三年十月に氏子中の小社を合祀し例大祭を四月十一日と改定した。日露戦争日中戦争など戦時色が濃くなると、『大戦后神社法人』として、国家の庇護を受ける様になった。
昭和五十一年四月に当社を二級社に昇格し、これを機会に損傷は激しくなった社殿等の改築工事を行うべく『昇格記念事業奉賛会』を結成し、町内会・氏子衆に広く呼びかけた。そして翌昭和五十二年八月八日に社殿改築工事の起工を初め、多くの箇所を修繕・改修、新築工事を行った。そして翌昭和五十三年十月二十九日竣工祝典を行い、今に至ります。
なお、嘉永六年に行われた改修の際には、多くの寄進者の名前と金額が石碑に刻まれていますが、そこには多くの人に『名字』が使われています。これは、江戸時代の一般庶民には『名字』を持たなかったと言う通説に大きな打撃を与えたものとして、一部では大変有名な石碑となっています。