郷土史研究41

どうも荒川鯉師です。
久しぶりの郷土史研究となりますが、本日の内容は『水害を免れるための信仰と言い伝え』を紹介致します。これは古くより水害と戦って共存して来た宗岡地区に残る伝承・信仰を取りまとめ、保存する目的で掲載しています。

水害を免れるための信仰と言い伝え

宗岡地区にある水神は中宗岡の天神社(郷土史研究8参照)に合祀されている大杉神社と同社の境内にある水神と刻まれた石碑ぐらいのもので、対岸の引又地区に明治後期まで祀られていた水神社、あるいは昭和初期に昔の河岸場付近に勧進された水神社(郷土史研究17参照)のいずれも、川における舟の航行の安全を祈願するために祀られたものであって、水害から人々を守ってもらうことを目的としたものではない。
旱魃に苦しむ人々が水を求めて行う雨乞い信仰は、当地でも信州戸隠山九頭竜権現御供講や大山講としてかなり盛んであった様子がうかがわれるが、水害を逃れるための講なり信仰があったことは特に聞いていない。なお、幕末には新座市大和田の普光明寺で快晴御祈祷を行ったという。
しかし、明治43年夏の初めの宵空にハレー彗星が出現すると「いまに血の雨が降る」というデマが広がり始め、血の雨の災厄除去を祈願するため、赤飯をふかし重箱に詰めて神社を巡拝したが、当市域周辺では、武蔵国一の宮氷川神社(大宮市)や坂之下(所沢市)に参拝する人が目立って多かった。
水をめぐる言い伝えとしては、洪水を予知するためのものと、経験的・歴史的なものなどに大別することができる。
洪水を予知するものとしては「辰巳(南東)の風が吹き荒れると大雨が降る」「辰巳の雷は大洪水の年だ」というのがある。いずれにしても辰巳は悪い方角のようである。予知ではないが、天候関係のものでは「南風の時には荒川が助かって利根川の方が大きな水が出る」というのもある。
また、後者の部類に入るものとしては下記のようなものがある。

  1. ほこ竹2段目まで水が来ると、家が浮いてしまう。
  2. 7月20日から8月8日の期間に大水が出ると田んぼが駄目になる。それ以前・以後ならは多少の収穫がある。
  3. タナギやクラに避難する時は鋸や包丁を持って行く。
  4. 軒端から舟を出す時に木を切ったりする必要上、舟の中にはいつも鋸・包丁・ナタを用意しておく。
  5. 水塚の屋根がいたむので、水塚の周りには大きな木を植えない。
  6. 堤防より水塚ができた。
  7. 昔の殿様は、水害に備えて水塚を建てなければ、宅地を許可しなかった。
  8. 水塚とクラを作るには多くの時間と経費を要したので、簡単には出来なかった。従って、水塚を作ることは憧れであり、土盛りの高さは、その家のステータス・シンボルであった。
  9. 水塚は方向の良い方にあるので、壊してはいけない。(破壊を戒める言葉であろう)
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以上の様に志木市宗岡地区に残る伝承を紹介しましたが、最後に祖母の話で締めくくりましょう。
「水害は逃げ畏れるものではない。この地の理に基づいている。それを覚悟したものだけが宗岡に住み、荒川の恩恵を受け、水害と共存している。その為、先祖は水塚を築き、長年に渡り水害の経験値を得てきた。」