郷土史研究45

どうも荒川鯉師です。
去る5月17日に安倍晋三首相は、成長戦略第2弾発表したのは記憶にも新しいと思いますが、その中で農業分野は、今後10年間で農業・農村全体の所得を倍増させる計画を打ち立てました。
さてそんな農業ですが、大正時代の農業は小作人と呼ばれる田畑など、農地の所有者である地主から農地を借りて耕作し、小作料を支払って農業を行っている農家の事で、小作料などは地主の一言で変わってしまいます。
そんな小作人環境を打破しようとする動きが、全国各地で起こりました。と言う訳で今回は志木市域で発生した小作争議『南畑小作争議』(南畑:なんばた)を紹介致します。それではどうぞ。

南畑小作争議

大正時代に頻発した小作条件の改善を地主に要求する「小作争議」は、この時代を象徴する出来事の一つであった。志木市域ではお隣、富士見市南畑地区で発生した『南畑小作争議』は、埼玉県最大の280町歩(現在の約2.777 km2に相当)を持つ大地主、西川武十郎(志木町)と農民運動指導者、渋谷定輔氏の他に聞き役として川越・浦和両警察署長、入間・北足立両郡長、志木町・南畑村両長、埼玉県議会議員らが加わった騒ぎとなる。
争議の発端は、南畑村東大久保地区の小作人が1922(大正11)年秋頃、高い小作料の軽減を地主に求めようと言う話しが南畑村全体に広がり、小作人364人を巻き込む大騒動に発展した。終始、小作人と地主との交渉は小作人側に有利な展開で進んでいたが、南畑村内に43町歩(現在の約0.4264 km2に相当)の水田を持つ西川家にとっては、小作地経営が主軸であり、小作料軽減は同時に西川家存続の危機を意味する為、この様な嘆願など聞き入れるはずも無かった。逆に西川氏は、今回の小作争議を起した小作人3名に対し、予め決められていた小作料の早期納入を求めたり、裁判所へ3名の支払い命令を提起したりと、強行策に乗り出した。そして極めつけは、この3名の家宅に乗り込み、小作料未納分の差し押さえを行った事により、南畑村南畑新田・下南畑両地区の小作人88人が小作地の返還を打ち出し、村を挙げて西川家に対抗した。また同時に、志木町で売られている商品の不買運動を計画していた。
その後の話し合いでも折り合いが付かず、仲介が入っても不調に終わり季節も春になってしまった。田植えを前にしても折り合いが付かなく、田んぼが不作農地になる事を恐れた西川家が急遽、小作人の自宅に赴き個人的な働きかけをしたり、納税が減る事を懸念していた埼玉県職員も仲介に入り早期解決に奔走したが、小作人の要求をここで飲むと、他の小作農地に影響が出ると考えた西川氏は、小作人が要求している内容には首を縦に振らず、受け入れなかった。そして遂に1923(大正12)年夏の田植えは行われず、南畑村43町歩は不作農地と化し、荒地になった。
この年の12月と2月に、日本農民組合(現在の全日本農民組合連合会:全日農)浅沼稲二郎氏や三宅正一氏らが南畑村に駆けつけ演説を計画。第一回は警察隊によって演説会場を弾圧されたが、二回目の演説は成功を収め、より団結を深めた小作人西川家に大きな脅威を与える事になる。
その後、1年半に渡った争議は西川氏から一反当り(現在の991.7 m2に相当)の小作料を二斗(現在の18lに相当)引き下げる成果を勝ち取り、終結した。そもそもなぜ、小作人がこの長期に渡って争議をする事が出来たのか。それは、この時期に行われた荒川上流改修工事による給料が得られた事が大きかった。