郷土史研究14

どうも鯉の子です。
では今回の郷土史研究は『佃堤』です。では参りましょう。
佃堤(ツクダヅツミ)
佃堤は宗岡村(現志木市上、中、下宗岡)を流れる荒川、新河岸川に囲まれており大雨が降ると度々洪水に見舞われていました。そこで当時この地を治めていた旗本、岡部氏が家臣の白井武左衛門によってこの佃堤を含む惣囲堤を築きました。堤の高さは約1.2m、総延長は1238.8m。他の堤と異なる点としては屈曲している事。これは一説に洪水流の軽減をされていると言われていますが私的にはこの屈曲している所にあるのは「水塚・上ノ氷川神社」が存在しています。要するにこの佃堤が出来た江戸時代より前にありなおかつ高台に位置する水塚、上ノ氷川神社を堤防と同じ役目にし、繋げて避難時の通路としての役目があったのではないかと推測されます。
しかしこの佃堤が出来た事により返って洪水の影響を強く受けたところがあります。そこは南畑村(現富士見市南畑地区)。この佃堤が出来たことにより南畑村を襲った洪水流が抜けずいつまでもその場にとどまり続けてしまいました。これにより南畑村と宗岡村は争い続ける事となりました。その後河川改修により度々押し寄せる洪水はなくなりそして昭和27年に行われた耕地調整や浦和所沢バイパスの道路工事により大部分を失ってしまいました。また佃堤の上部に農業用水に使う水の確保の為にコンクリート製のドレーン管を通した事などによって佃堤としての役割を終えました。』
宗岡地区は洪水との戦いですからねぇ。この様な水防遺構は多く見られます。しかもそれは現在も使用されており転用活用として保存されている事も大きな魅力の一つです。この佃堤は効力を失った現在でもこの堤に沿って新築が建てられている事や堤沿いを1つの公園としている事を考えると地域と一体化したものになっているのでしょう。しかしこの佃堤を始め、水塚や市内史跡について知る人は年々少なくなっているととある郷土史家が話していたのを覚えています。またこの佃堤限定で話すとこのコンクリート管が佃堤ではないのか?と言う人もいました。文化財遺産クラスとして注目されるのはやはり国宝級のものであるのは分かりますが、もっと身近な文化財遺産に目を向けてみてはいかがでしょうか。
最後はなんか湿っぽい話になりましたがまぁ簡単に言えば近所を散歩してみなと言う事。