郷土史研究20

どうも鯉の子です。
最近、最新版のブログになんかよくわからない宣伝が入っているんですよねぇ〜抹消消去の仕方が分からないので大分困っております。もぅいっか。諦めよう…
さて、今回の郷土史研究は、前にちょっと触れた羽根倉の渡船場について紹介したいと思います。

羽根倉の渡船場

郷土史に欠かせないものとなっている「新編武蔵国風土記稿」の宗岡について書かれている項目に、「羽根倉河岸ココモ奥州古街道ニテ荒川ノ岸ヲ云。此所ハ船渡しアリ、対岸足立郡下大久保村ト当村ナリ」と言う記述からもわかる様に、奥州街道の重要な渡河地点として、古くから存在していた事がわかる。
明治に入り、羽根倉の渡船場は宗岡村が熊谷県、下大久保村が埼玉県と2県に分かれ、運賃1つを決めるにも2県の許可が必要であった。また荒川は、一旦雨が降ると激流と化し、ひどく暴れるので、船賃がその時の状況によって値上げがされたそうです。
〜羽根倉の渡し賃〜

  • 平水事(川幅30間=54m):3厘
  • 中水事(川幅55間=99m):1銭2厘
  • 大水事(川幅70間=126m):2銭4厘

当時の船頭の話が残されており、「洪水時には、宗岡側の岸辺をはるか上流まで遡り、流れに合わせて船の舳(へさき)を川の中央に向け、急流を斜めに横切る操航で、濁流を縫いながらの櫓捌きでようやく対岸の船着場に接岸する方法をとっていた。」と言う話も残されている。この話から渡し賃の変動も止むを得ないと言った所である。
浦和市史」によると、この渡船場にいた船頭は計6人で宗岡側に2人、下大久保側に4人おり、人を運ぶ船は1艘ずつ私有船であり、馬を渡す船は共有船であった。
こうして6人の船頭衆によって多くの人が水路の便を助け続けたが、昭和13年5月25日に羽根倉橋(冠水橋)が完成した事によりその役目に終止符を打った。』

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と言う所ですね。7月2日のブログには、洪水時に沈む橋の事を沈下橋といいましたが一般的には冠水橋と言うらしいんですよ。いやはや紛らわしいくてすいません。
上の写真は平成5年現在の羽根倉の渡し跡ですが、ゴルフ客専用の渡し船がありました。今現在ではそこから約1km上流に移っていますが、それがその場所にあった渡しの名残となっております。