郷土史研究23

どうも鯉の子です。
今回の郷土史研究は、東方神霊廟が出たからと言う訳ではないと言えば嘘になりますが、ついこの前(とは言っても8月中旬)行田市に在住の友人が、ワザワザ志木市に来ていただいた時に、
「家の敷地内に墓があるんだねぇ。普通墓ってお寺でしょう?」
と言ったのでそれまで寺にある墓と、民家にある墓2種類ある事が普通だった私にとっては衝撃でした。そんな衝撃の余韻で書いたのが今回の郷土史研究です。相当な余韻ですね(笑)重要なので2回言いますが、これは決して東方神霊廟が出たからと言う訳ではないと言えば嘘になります。分かりましたか?宮古芳香サン?

両墓制

そもそも両墓制とは、遺体を埋葬する所(※ナゲコミ)とお詣りする所(※マイリバカ)で場所が異なる墓制の事を言います。埼玉県内に於いては柳瀬川下流域に位置する埼玉県志木市朝霞市宮戸地区、富士見市新座市大和田地区、入間郡大井町に多く見られた。
そもそも両墓制がとられた理由は、死者を土葬で埋葬された場所(埋葬地)を忌み嫌い、死者の霊魂だけを祀る為、別の祀地を設ける事から二つの墓=両墓制が生まれたと考えられます。
志木市内の両墓制は平成元年まで志木市下宗岡にある大日堂で行われていた記録が残っており、それ以降はない事からその日を境に行われなくなったと考えられる。平成6年の資料によれば、新座市大和田、富士見市水子・下南畑の一部寺院では両墓制を継続していると記載されているが、今現在は不明である。おそらく、消滅したと考えて良いだろう。
現在では、死者を火葬する事が義務付けられた事、皮肉にも墓の需要が急増し、墓地の敷地が不足している事、時代の流れで、死体に近づく穢れが無くなった事から両墓制は衰退し消滅したが、一部の旧家や農家では寺院に納骨した墓と、彼岸の時に送り迎えに来る(祀る)墓と別々にしている所が多い。これもまた両墓制のなごりかもしれない。
また、大日堂境内には両墓制から納骨墓地へ切り替えた際の記念碑が建っている。その一文を読むと、
〜省略〜 当初ハ埋葬ノ場ト精霊ノ供養ノ石仏建立ノ処ヲ異ニスル所謂両墓ノ制トナセリ然レドモ自来数百年ノ歳月ヲ閲シ檀家ノ数モ百数十戸ヲ超ヘ旧来ノ両墓制ヲ堅持スルハ甚ダ困難トナリ早晩改革スベシトノ要望者シク高マルニ至レリ 特ニ近年ハ殆ンド火葬ヲ主体トシ納骨ト石仏トハ同ジ処トスル実状ニ鑑ミ是ヲ好機ト断定慎重審議ノ結果新方式ニ拠ル一大改葬ヲ決行〜以下略〜 平成元年十一月吉祥日」
少々カタカナ交じりで読みにくいですが要するに檀家をはじめ、大日堂の関係者が従来から続く両墓制を捨て、現代が行っている火葬し骨壷を墓石のある所に納めると言う方法に改葬する事を平成元年に取り決めた。と言う事になります。と言う事は近年まで柳瀬川下流域にある特定の寺院は土葬が主流だったという事です。

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まぁちょっとショックです。まさか平成元年まで土葬を行っていたなんてねぇ…。でもこう言ったショッキングも郷土史研究の醍醐味?ですわ。

※…※印2項目は志木市を含む柳瀬川下流域の方言である。また、その地方でも細かく変わってくるが今回は私の力不足によるもので、下流域地区混合の両墓制関係の方言を紹介したい。

  • 遺体を土葬する所…ウメバカ・イケバカ・ステバカ・ナゲコミ・サンマイ
  • 霊魂を祭る墓…マイリバカ・キヨハカ・マツリバカ・オガミバカ・ラントウ

またいつか紹介しますが、大日堂は1346年頃にどこかの落武者が宗岡の地に流れ着き、そこでお寺を創建したのが始まりと言われていますがこれも口碑(言い伝えられた事を石碑に残す事)なので定かではない。
と言う事でこの墓制がもし現代まであったら、リアル 宮古芳香 キョンシーが現れますよ
「ちーかよーるなー」ってな感じで…。
まぁ…最近(でもないけど)東方推しに困っていませんが郷土史研究にまで現れて良いものか悩む今日この頃…
(註・郷土史研究はまじめに行っています。多少の間違いは勘弁として、文章すべてが二次創作文ではありませんので点線内は安心してお読み下さい。)