郷土史研究24

どうも鯉の子です。
今タイでは未曾有の大洪水に見舞われており、いよいよバンコクも浸水被害が出てきていると報道されています。洪水に遭われた方々には、被災見舞いを申し上げます。鯉の子
さてそんな洪水ですが、関東平野一円を襲った未曾有の洪水と言えば、明治43年の大水』を忘れてはいけません。
と言う訳で、今回は関東平野最大規模の大洪水明治43年の大水』を紹介いたします。

明治43年(1910年)の洪水

この年は、4月中旬に大雪が降り、初夏には地上目視での長さ3mにも及ぶ彗星が現れるなど異常現象が多発。そこで宗岡村村民を始め、多くの人々が大宮にある氷川神社などへ赴き、災難除けの祈願をする者まで現れた。
しかし祈願も虚しく、8月1日から降り始めた雨は次第に漸次烈しくなり、6日目には豪雨となった。荒川、新河岸川、柳瀬川が次第に増水し始め、豪雨止まぬ10日目の晩には、南畑村(現、富士見市南畑)の荒川堤防が数ヵ所で決壊し、宗岡村との境にある佃堤を越堤し、新河岸川、柳瀬川の堤も越堤。濁流が合流し宗岡村を襲ったのである。
この時の増水スピードは異常に早く、志木町(現、志木市本町)に避難もままならず、水防施設である水塚に家財や食料を運ぶ時間さえも与えなかった。その間にも濁流は増え続け、納屋の2階屋根の下、水塚の床上まで水が押し寄せるほどで、水塚の無い家の者は民家の屋根に上ったのは良いものの濁流でその家屋自体が押し流され、悲鳴と叫び声は豪雨と濁流によって搔き消されてしまっていった。その光景はまるで地獄絵を見ているかのようである。志木町からの懸命なる励ましの声も無情にも届かなかった。
本格的な救助活動が開始されたのが翌日の午後になってからだった。しかしまだ豪雨は降りやまず濁流もますます増水し、川越方面でも荒川の堤防が決壊したとの連絡が入るなど、危険な状況だったが志木町町長と消防夫、舟運船頭など20人が高瀬舟・荷足船9隻、宗岡村の洪水時避難用和船多数で、命がけの救助活動が行われた。そうして屋根に取り残された村民約300人が無事救助された。
そして豪雨も15日目には落ち着き始め、21日目には濁流が引き始めました。この時の光景として、とある古老の話に以下の話が残されています。
「市場(現、バス停市場坂上近辺)から宗岡を見ても民家と思われる建物はなく、点々とクラ(おそらく水塚の事)と木々しかなく川が1つになった。そして遠くにあるはずの浦和市別所(現、さいたま市浦和区別所)が近くに見える様に感じた。」この事から、埼玉県低地地域の全水没を伺う事が出来ます。
その後の調査で、洪水位の標高は各ヶ所により7.995m〜9.185mとばらつきがありましたが、最終的には民家の障子に残された8.195mを採用し、これが宗岡村における明治43年の大水の最高水位となりました。
なおこの16日間に渡る大水の原因は、房総半島沖を進んだ台風静岡県沼津に上陸し東北地方まで本州上を進んだ台風の暴風雨が引き起こした洪水であった。

                                  • -

いやぁ〜昔の人って筆が達筆だから読めないんだなこれが…。ですからね、しょうがなく現代翻訳をされたものをさらに、私が言い換えてみました。もしかしたら私の翻訳した文章が違った解釈でここに出しちゃっているかも知れないので、もし調べ学習などでこの洪水を調べる方は、きちんとした資料を基にして下さいね。私のでも大丈夫だと思いますが、ここは違った時の言い訳で…。
鯉の子


関東平野一円の被害

  • 死者・行方不明者:1,379人
  • 全壊・流出家屋:約5,000戸
  • 床上・床下浸水:約518,000戸
  • 堤防決壊:7,266ヶ所

埼玉県の被害

  • 死傷者:401人
  • 全半壊・流失家屋:28694戸
  • 堤防決壊:314ヶ所
  • 農産物損害:(現在の価値で)1千億円

宗岡村の被害

  • 死傷者:記述なし
  • 全半壊・流失家屋:127戸
  • 貯蔵穀物流失:3000俵
  • 無収穫作物腐敗被害:水田230町歩(約228.1ha)、畑150町歩(約148.8ha)