郷土史研究25

どうも鯉の子です。
昨日は(今日の深夜)バイトの残業を途中に終え、家に帰ったのは良いものの大学の宿題があるのでやろうとしたが、コンクリートの積算が面倒臭くなったので、諦めて寝たら起きたのが13時と土曜日の午前中を無駄に終わらせる結果となりました。
さて、今志木市にはあらちゃんの居住地である秋ヶ瀬取水堰と、農業用水と洪水溢流水を防ぐ目的で、大小さまざまな圦樋(いりひ)(いつか紹介します)が存在しますが、かつて新河岸川には水門が存在していました。そう言う訳で今回は『宗岡閘門』を紹介します。ではどうぞ。

宗岡閘門

宗岡閘門(むねおかこうもん)とは志木市(旧北足立郡足立町)を流れる新河岸川にあった閘門です。そもそもこの閘門とは、水位の差や土地の高低差を行く時に、一旦閘門内にある閘室と言う所に船が入り、進行方向の水位に合わせて航行する為にある施設である。
新河岸川は、江戸〜川越を結んだ舟運(また今度やらんと話があわん)が栄えており、舟運がきちんと航行出来る様に出来たものですがではなぜこの宗岡閘門が出来たのでしょうか?それでは、歴史的背景を基に見てみましょう。
私の住んでいる志木市を始め、この辺りは荒川沖層地帯低地の為たびたび洪水に悩まされて来ました。そこで埼玉県は荒川の新河岸川・各支流に流れ込む、逆流性洪水流を防ぐ目的で当時九十九曲がりと言われた新河岸川の直線化工事を行おうとしたが、舟運で栄える志木町(現志木市志木地区)などが1906年明治39年)に工事主である埼玉県に「舟運に必要な豊富な水量、緩やかな流れを保持出来なくなり舟運が困難になる」と言う反対運動により工事は一時凍結。そして運命の1910年(明治43年通称『明治43年の大水害』が発生。関東平野一円が泥水に浸かり、多くの死者・負傷者が出ると言う大惨事を招いた。
この事から埼玉県は『荒川改修事業』として荒川の大規模改修に乗り出した。また、新河岸川についても宗岡村(現志木市宗岡地区)を始めとする沿岸市町村による新河岸川改修同盟』運動の結果、反対運動を押し切り1921年からの9ヵ年継続事業として新河岸川改修計画が盛り込まれた。また洪水流抑制や反対運動理由である『舟運の継続』を叶えるべく今回の『宗岡閘門』が建設される事になった。
1921年(大正10年)、志木町に新河岸川改修事務所』が置かれ(なんか複雑…)翌1922年(大正11年)に新河岸川改修工事の起工式が行われました。そして1928年(昭和4年)宗岡閘門の工事に着手し、そして1929年(昭和5年)宗岡閘門が竣工。そして翌1930年(昭和5年)に新河岸川改修工事が竣工。こうして新河岸川全体の改修工事が完了しました。しかし、時代は船→鉄道の時代へと移行していた。志木町を東武東上線が通り乗客、荷物は全て鉄道に取られ、新河岸川も河川改修により、閘門より下流は、河床が露わになるほどの水量低下により舟運が困難になり、最終的には埼玉県から通船停止令が出され舟運は途絶え、宗岡閘門は『宗岡水門、いろは水門』に名前を改称。しばらく農業用水の灌漑や洪水流の抑止に努めたが、高度経済成長に伴い、新河岸川の水質汚濁で農業使用不可水となった為、1980年(昭和55年)に閘門→洗堰の順で撤去され、その役目に終止符を打ちました。
そんな宗岡閘門(少なからず舟運も説明しましたが…)ですが、当時の資料を開くと設計図と共に細かな配置図があるのでちと見てみましょう。
宗岡閘門は、2つに分けて説明する。まずは洗堰、洗堰は左岸側にあり鋼鉄製引揚扉(幅:3.6m 高:1.8m 重:1.8t)あり回転式人力ジャッキによって上下させていた。なおこの回転式人力ジャッキは、現在志木市立郷土資料館に屋外展示されている(写真5↓)ので行って実物を見るのも良いかもしれません。
右岸側には、閘門があり、効果は上記記載済である。2つの鉄筋コンクリートの島の両端に計4枚の鋼鉄製観音扉(こちらも回転式人力ジャッキで操作)で仕切られていた。また閘室は、幅:6m 長:25.8mあり将来的に大規模な通船を計画していた。
基礎杭は、丸ビルにも採用された松丸太杭(長:10m)を採用。実際2010年辺りに行われた新河岸川河床採掘工事の際に出土したと言う話を聞いた事がある。宗岡潜管でも出てくるかなと思ったのですがね。と言う事は約1世紀経とうとしているのにまだまだ腐らずに残っていたと言う事である。これは、昔の土木技術者と松丸太に感謝せねばと思う。



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と言う事ですが、4枚目の写真は今から10年前の宗岡閘門跡です。小学校の調べ学習で『水塚』を調べている時に、川に謎のコンクリート跡があると不思議に思ったのでこの写真を現像(←まだフィルム時代ですよ)して、祖父と祖母に見せた所、その時初めて『宗岡閘門』の存在を知ったんですよね。今考えると変な小学生ですよ。だって川にあるコンクリート跡を見て「なんだあれ?」と不思議に思う小学生なんてどうよ?変だろ!?
あぁそう言えば因みに、この宗岡閘門跡は、上記にも記した新河岸川河床採掘工事で無くなりました。写真を撮っといて良かったわぁ〜。