新潟・佐渡紀行5

どうも鯉の子です。
この紀行も早5回目となりまして、もう遠い過去の話になって来ていますがまぁ昨日の事と言う風に話させて頂きます。
と言う訳で今回は佐渡金山』です。どうぞ。

佐渡金山

1601年(慶長6年)に鶴子銀山の山師3人が金山を発見し、佐渡金山』を開いた所から始まります。その後、佐渡金山は徳川幕府直轄の天領となり、その豊富かつ安定した産金量は約300年にわたる江戸幕府の存続を支えてきました。金銀山の景気にわいていた佐渡を目指して、全国各地から鉱山技術者や商人、労働者たちが集まり、それまで百姓の寒村だった島に突如人口5万人とも言われる大都市『相川』が誕生します。江戸と直結していた佐渡には、当時最先端の知識や技術がもたらされ、全国各地から集まった人々は地域色豊かな文化を佐渡に根付かせました。開山から約100年で坑道の深さが海水面にまで達した金山は、坑内の湧水に悩まされるようになりました。江戸時代の坑道は、水没による放棄と排水技術の向上による再開発の繰り返しで、『水との戦い』だったとされています。
明治に入ると、新政府は1869年(明治2年)、他鉱山に先駆けて佐渡鉱山の官営化を決め、西洋人技術者を招いて近代化に着手します。さらに1885年(明治18年)には、当時の鉱業界の第一人者、『大島高任』を初代佐渡鉱山局長に迎え、更なる近代化と拡張が図られました。この過程では国内初の西欧技術が数多く佐渡鉱山で実地に使われ、近代化の模範鉱山となりました。1890年(明治23年)には鉱山学校も開校し、当時最先端の鉱山技術を授けたほか、他鉱山からも研修希望者が多く、近代化を担う技術者の養成にも貢献しました。
1896年(明治29年)、それまで皇室財産だった佐渡鉱山は三菱合資会社に払い下げになり、民営化されました。以後、1989年(平成元年)の採掘中止に至るまで、三菱による経営が続きます。昭和に入り、国策によって金の大増産が始まると、佐渡には東洋一の浮遊選鉱場が建設され、中心的役割を担いました。

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瓦からまたまたガラス窓に至るまでなんと三菱の家紋が入っているんですよね。こんな所まで三菱とはまさに企業城下町だなぁ〜と感じてしまいます。