群馬探訪2

どうも荒川鯉師です。
さて昨日は妙義神社を紹介致しましたが、本日はそこから南東に約12km離れた所に位置する富岡製糸場を観光しました。それではどうぞ。

富岡製糸場

明治5年10月4日に操業を開始した日本初の機械製糸工場である。他国と同様に大規模な機械を装備した近代的な製糸工場を稼動させ、製品の量・質ともに高めていくことが殖産興業を推進するには必要であると言うのが叫ばれえいた。
そこで政府は、群馬・埼玉・長野をはじめとする関東近郊に製糸工場の建設予定地絞りました。その中から群馬県が決定しました。主な理由として、

  1. 富岡付近は養蚕が盛んで、生糸の原料の繭が確保できる。
  2. 工場建設に必要な広い土地が用意できる。
  3. 製糸に必要な水が既存の用水を使って確保できる。
  4. 燃料の石炭が近くの高崎・吉井で採れる。
  5. 外国人指導の工場建設に地元の人たちの同意が得られた。

事が理由として挙げられています。
当初はお雇い外国人の『ポール・ブリューナ』氏が繰糸機や蒸気機関等を輸入し、養蚕業の近代化に尽力を尽くしました。明治8年に任期満了を迎え明治9年に帰国すると、初代日本人所長『尾高惇忠』 氏になった。
外壁は『木骨レンガ造』と言われる造りで、木骨部には屋根の荷重しか架からず、レンガ部の荷重はレンガのみで支えると言う特殊な構造をしています。また、木材は妙義山や吾妻から調達し、レンガは地元で焼きました。なお、レンガ職人を埼玉県深谷市から呼び、品質の高いレンガを煉焼しました。
屋根は、小屋組みのトラスであり、この様な工法にする事によって荷重が分散し、部屋を広くする事ができます。その為、今でもこの工法は広く使われています。
以上で終わりですが、当時は『外国人に生き血を吸われる。』『外国に売り払われる。』などの風評が流行り、なかなか工女が集まらなかったと記載されていました。なぜこの様な風評が広まったのか、まず一つ目は『生き血≠ワイン』と言う誤解でした。二つ目は『実際にあった為』とされていますが、この風評を廃する為に国が『告諭書』を発布し努力に勤めたと言われています。