出雲御国紀行7

どうも荒川鯉師です。
さて3日目は、早朝に松江市内の『八重垣神社』を拝観した後、私が中国地方に行ったらぜひ行きたかった鳥取県『白兎海岸&白兎神社』を旅しました。境港へ行きまして魚介類をお土産に買い、美保関として景観が美しい所に鎮座します美保神社を紹介致します。それではどうぞ。

八重垣神社

八岐大蛇への生贄となった櫛稲田姫命を、素盞鳴尊が佐草の里の大杉を中心に八重垣を造って隠し、八岐大蛇を退治した後に櫛稲田姫命と結ばれた。後に佐草里八雲床に宮を構えて、須賀の宮からお移りになると、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」と言う句を御読みになられた。
出雲国風土記には、素盞鳴尊の御子・青幡佐久佐日古命が坐した地とあり式内社・佐久佐神社が鎮座していたという。
佐久佐神社は、仁寿元年(851)には従五位貞観七年(865)に従五位上貞観十三年に正五位下、元慶二年に正五位上を授けられた大社であった。
大原郡須賀の地にあった八重垣神社が中世の頃に、佐草の地に遷座されかつての大社・佐久佐神社を境内の一社として祀ってしまったらしい。その後、明治維新を迎え、本社・末社を入れ替えて社号を佐久佐神社とし、主祭神も青幡佐久佐日古命とし、八重垣神社の名は廃れてしまう。
だが神主や氏子衆達は、八重垣の社号を捨て切れず、大正十一年、八重垣神社と社号を戻して県社に昇格した。

白兎海岸&白兎神社

大穴牟遅神が、因幡の八上姫神に求婚しようとする八十神達のお供をして因幡へ向い気多の前に来た時、とある海岸で裸の兎と出会う。
兎の話によると、淤岐ノ島から本土へ渡ろうと思い、海にいたワニを騙して、その背を踏んでここまで来たが、地上に降りようとした時に、騙したことを告げてしまい、ワニに捕まり、毛を剥ぎ取られてしまった。
そこへ通りがかった八十神の教えの通り海水を浴びて、高山の頂に伏して身を乾かしていたが、以前に増して、痛みが激しくなり泣いているという。
憐れに思った大穴牟遅神は、水門へ行って、真水で身体を洗い、蒲の穂を敷いて転がるように教え、その教えの通りにすると、兎の身体はもとに戻ったという。そのお礼に、兎は、大穴牟遅神が八上姫神を娶るであろうと予言する。「因幡の白兎」は、「稲羽の素兎」とも書かれ、白い兎ではなく、裸の兎と解釈する説もある。
大黒さまと白うさぎの神話で知られ、「古事記」「日本書紀」にも記されている由緒ある神社である。神話にゆかりの白兔神を祭り、皇室の紋章である菊花を型どった菊座石が社殿の土台に使われている。
神社の前には、いかなる旱天・豪雨にも水の増減がないという「不増不滅の池」があり、神話によればこの池で、皮をむかれた赤裸の白兔が真水で身体を洗い、ガマの穂でくるんだ、といわれている。
鳥居をくぐり、石段を上った右手には、言語学者、北里翁の詠んだ「ワニの背に似たる岩見ゆ蒲ならぬ、浪の花散る気多の岬に」の歌碑が立っている。










美保神社

美保神社は事代主の神社であり、事代主神系列の「えびす様」の総本宮である。「えびす様」には他に蛭子神系列がある。当社は式内社美保神社に比定されている歴史のある古社。
事代主神は、大国主神御子神天孫降臨に先駆け、建御雷神が大国主神に対し、葦原中国(日本国土)の明渡しを要求した時、その判断を一任された神で、その時、美保に釣りに来ていたと、古事記に記されている。(と言う事は釣りの神様でもあるのか・・・)
美保の郷の名のおこりは、『出雲国風土記』に「天の下造らしし大神の命、高志の国に坐す神、意支都久辰爲命のみ子、俾都久辰爲命のみ子、奴奈宜比賣命に娶ひまして、産みましし神、御穂須須美命、是の神坐す。故に、美保といふ。」とある。
当社は、同風土記記載の美保の社であるが、当社では御穂須須美命ではなく三穗津姫命を祀る。三穗津姫命は、高皇産霊神御子神で、大物主神の后。事代主神から見ると、父神の側室という感じでは無いか?美保の地名は、三穗津姫命によるものとする説もあるようだ。あるいは、御穂須須美命=三穗津姫命と考えられる。