郷土史研究43

どうも荒川鯉師です。
さて、本日は所用で志木駅に行っていた帰りの事、志木市本町にあります敷島神社の前を通ると何やら大祭の様な雰囲気を感じ赴いてみると、氏子衆と本装束を身に纏った巫女いましたので、近くの氏子の方に話を聞いたらこれから『浦安の舞』を奉げるとの事でしたので、今回の郷土史志木市域に於ける『浦安の舞』をご紹介したいと思います。それではどうぞ。

敷島神社 浦安の舞

そもそも浦安の舞とは、1940(昭和15)年11月10日に開かれる皇紀二千六百年奉祝会』に合わせ、日本全国の神社で奉祝臨時祭を行った。その際、祭典中に奉奏する神楽舞が立案され、当時の宮内省楽部の楽長である多忠朝が国風歌舞や全国神社に伝わる神楽舞を下地に作曲作舞した神楽舞である。この舞を全国に普及させる為に、日本全国で講習会が開かれる様になり、海外鎮座の神社でも奉奏する関係上、朝鮮・台湾などの外地へも講師が派遣された。奉祝会当日午前10時には全国一斉に奉奏されて以来、各神社で舞われるようになり現在に至る。
浦安の舞などの近代に作られた神楽は、国風歌舞や舞楽、神楽舞を下地に創作されたものであり、広義では雅楽の延長としても捉えられている。神社祭祀に特化した新たな創作神楽であることから、狭義では雅楽と明確に区分される。特に作曲・作舞した多忠朝は、日本神話を根拠とする神楽舞の重要性、日本文化に於ける神楽の独自性を主張している。
志木市域に於ける浦安の舞は、一時期全ての神社で行われていたが時代の流れによって浦安の舞は何時しか衰退していた。しかし十数年前に敷島神社の氏子衆によって敷島神社の浦安の舞は復活し、現在に至っている。
巫女装束は女房装束を下地に製作され、昭和15年に制定されたものが正式とされる本装束と呼ばれる衣装である。単・衵・小忌衣・裳・緋袴で構成し、扇舞で用いる檜扇を採物として手に取る。特に青摺の小忌衣を着用のがこの舞に特化されたものである。
鈴舞で用いる鈴は、舞の途中で檜扇と持ち替える。また、額には花簪若しくは前天冠を著け、髪は後ろで束ねて絵元結を結ぶ。髪が短い場合は髢を付ける。
浦安の舞で使用される鈴は鉾鈴と言い、柄に20cm程の鉾と鍔が付けられ、鍔の部位に6個、または8個の鈴が付けられる。これは三種の神器を模したものであり、鉾は天叢雲剣、鍔は八咫鏡、鈴は八尺瓊勾玉とされている。

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私的事ではあるが、浦安の舞の事は知っていたが実際に見るのは初めてでした。近代から始まった比較的歴史の浅い雅楽ではあるが、歴史的背景や装飾伝承性に於いて、志木市をはじめ全国的に価値のあるものではないかと考えられる。

※写真撮影に関しては許可のもと撮影しましたが、掲載の中止などの依頼に関しては下部のコメントを用いてご連絡下さい。