安讃備紀行-4

どうも荒川鯉師です。
厳島神社を後にした私が次に向ったのは、山口県岩国市にある「錦帯橋」を見学させていただきました。これは当初予定には無かったのですが、建築学科の人間が折角ここまで来たのに、橋を見ないなんてバカげていると思いまして、向いました。
と言う訳で今回は「錦帯橋」を紹介致します。それではどうぞ。

錦帯橋

この橋は、山口県岩国市を流れる錦川に架かる橋である。そもそもこの橋は、洪水によって何度も流されている事に、頭を悩ませていた岩国藩藩主の吉川広嘉氏が、中国杭州の西湖に架かる橋が描かれている絵画をヒントに、五連の橋を造る構想を立上げ、延宝元(1673)年に完成した。
橋の構造として、岸に一番近い2橋は反りを持たした桁橋構造であり、中4橋は迫持式と言われるアーチ構造になっている。橋脚は四つの積石で出来ており形は舟形である。それは、洪水の抵抗を極力減らす工夫が取られている。また、岸に近い橋脚は橋杭が出ており、川に近い所で橋杭受石と言われる石杭となっており、石を木と合致させる当時の技術には大変驚く所がある。この橋杭は私の推測であるがヒバ系の木を使用しており、ヒバは耐候性や耐犠性に優れ、油を含む為水分からの腐りに強い事で知られています。アーチ橋の部材には、裏側の桁と呼ばれる所には、松系の木が使用されている様に見られた。松は軽く強度が高いので、梁に使われるのでこの様な推測をさせて頂いた。高欄は匂いで分かるがヒノキを使用している事が分かる。
延宝元年に完成した橋だが、延宝2(1674)年に洪水で流出してしまう。洪水が治まった日から再建が再開し、それ以来小さな改修を重ねて維持してきたが、昭和25(1950)年のキジア台風によって276年も耐えてきた橋が流失してしまった。翌年の昭和26(1951)年に通称「昭和の再建」によって、その雄姿は復活した。その後半世紀以上架替えは行われなかったが、昭和63(1988)年の腐朽調査で「強度に問題は無いが、橋桁に腐朽が始まっている」と診断され、平成11(1999)年に錦帯橋の工事が始まった。これを「平成の大改修」と言った。
しかし、この工事には一つ問題があった。それは「昭和の再建時の資料が少ない事」である。当時の棟梁や大工は口伝や己の技量で何とかなったが、平成の改修では口伝も無く当時の大工も一人しかいなかったそうです。
少数の資料と当時の大工の口伝、解体時の調査資料などを基に作業を行った結果、平成15(2003)年に竣工を迎え、今に至る。

※お知らせ※
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荒川鯉師