安讃備紀行-5

どうも荒川鯉師です。
錦帯橋を後にした私達は、すっかりお馴染みになった国道2号線を北上し、向うは広島市中心街に立つ原爆ドームを見学させていただきました。
友人は戦争と言う悲惨さを直視できないのか、当初から「行きたくない。」と言っていましたが、やはり嫌でも苦しくてもこの遺構を見なくてはいけないと思い、向いました。それではどうぞ。 

原爆ドーム

昭和20年8月6日午前8時15分にアメリカ軍のB-29爆撃機エノラ・ゲイ」が、世界史上初めての原子爆弾によって破壊された旧広島産業奨励館の残骸である。
原子爆弾は投下43秒後に、この建物のほぼ直上約600mの空中で爆発した。爆発後0.2秒後に太陽の照射エネルギーの1000倍以上の熱線に包まれ、その時の地表表面は3000℃に達していたとされている。その0.8秒後には440m/sの爆風が襲い、瞬間パスカルPa)は350万Paと言う爆風圧が襲った。分かりやすく言い換えると、1立方メートル35tの加重が加わった事になる。
その1個の爆弾によって一瞬に20万人を越える人々の生命が一瞬で失われ、半径約2kmに及ぶ市街地が廃墟と化した。この非情で悲痛な事実を後世に伝え遺し、全人類の戒めとする為、国の内外の平和を願う多数の人々の寄付金によって補強工事を行い、これを永久に保存し今に至っている。
ここで疑問に思っている人がいると思うが、なぜ広島産業奨励館はこれ程の威力に対して全壊を免れたのだろうか?これには多くの研究家が調査しているが、共通見解として「直上で爆発した為、横移動する衝撃波から逃れる事が出来た。窓が多かった事により、爆風が通り抜けた。」と言われいる。
建築物としての広島産業奨励館は、チェコ人建築家のヤン・レツル氏(1880-1925)の設計によるレンガ・RC造の建築物である。楕円型のドーム部は鉄骨で造られており、原爆ドームの象徴的位置にある。現在では、破損部に樹脂をコーティングしこれ以上の破損を食い止めたり、鉄骨を補強材に使用し倒壊を防いでいる。
見学をしてみると、レンガ造の割には窓などの開口部が大きくとられており、開口部からの損壊が予想される。これは地震経験の少ない外国人の設計によくある事で、関東大震災では倒壊は少なかったものの、重損壊が多く確認された。
2001年に発生した芸予地震時には原爆ドーム震度5弱の揺れが襲ったが、前述の補強工事で、倒壊には至らなかった。

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見学した後は、広島風お好み焼きを堪能し帰路に着きました。その帰路で遭遇した身も凍る壮絶な体験は、後ほど紹介したいと思います。