安讃備紀行-6

どうも荒川鯉師です。
3日目に突入した今紀行ですが、岡山県を旅行したので紹介したいと思います。
では、最初に訪れた場所吉備津神社を紹介致します。それではどうぞ。

吉備津神社

古事記日本書紀によれば、御祭神の大吉備津彦命は第七代孝霊天皇の皇子と生まれ、第十代祟神天皇の御代四道将軍の随一として吉備国に下られ、当時、当地方にて蛮行を重ね大和朝廷に対抗していた温羅(うら:百済の王子との口伝あり)一族を平定し、平和と秩序を築き、この地にお宮を営まれて吉備国の人々の為に殖産を教え行い、二八一才と言う長寿を以てこの地に薨去せられ吉備の中山の山嶺に葬られました。
社伝によると、第十六代仁徳天皇が、吉備族より上がった黒媛を慕って吉備国に行章された時に、これの歓待にあたった吉備族より吉備津彦命の業績を聴かれ、その徳を偲んで吉備国の祖神として崇め奉斎されたと伝えられてます。のち、延喜式の定まるや明神大社に列し、やがて天慶三(940)年には最高の一品の神階を送られ「一品吉備津大明神」また「三備の一宮」と称され、都を遠く離れた僻地に在りながら朝野の尊祟殊のほか篤く、平安末期の「梁塵秘抄」をみてもそのご神威の程を窺うことが出来ます。
中世以降、江戸時代中期まで他社の例にもれず当社もまた神仏習合の永い歴史を過ごしてきましたが、明治の神仏分離を待たず、江戸時代中期には分離し、現在に至っております。
産業の守護神として、長寿の守り神として、その御神徳を慕う人々は今も昔も変わることなく吉備国の祖神として尊崇のマコトを捧げ続けております。また、吉備国の人々に歴史とロマンを伝えてきた吉備津彦命の温羅退治の伝承神話が中世以降全国的に知れ渡っている「桃太郎」のルーツとしても親しまれています。
本殿及び拝殿は、室町時代応永三二(1425)年の再建で、建築様式は「比翼入母屋造」で、全国でもこの造りは当社のみとなっており「吉備津造」とも称されています。この本殿及び拝殿は、国宝に指定されています。他にも自然の地形を利用した廻廊や、古来より受け継がれている「鳴釜神事」が行われている御竈殿は、国の重要文化財に指定されています。

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この吉備津神社の境内には色々紹介したい所がありますが、それはまた今度。