安讃備紀行-7

どうも荒川鯉師です。
さて、吉備津神社を後にした一行が向かったのは、吉備津彦神社と言う社です。
と言う訳で今回は、吉備津彦神社を紹介致します。それではどうぞ。

吉備津彦神社

当社は昔、太陽・月・磐座・巨木を信仰し、山は神体山にして天津磐座磐境を有し、境内は広く十万町歩といわれている。夏至の日の出には太陽が真正面より昇り、祭文殿の御鏡に入る為、別名『朝日の宮』と称され、本州一宮、吉備之國一宮、国の宗祖神を祀るお社として崇め奉られてきた。
御祭神の大吉備津日子命は、吉備之国の地を平定され、永住され崇神天皇60年に神去りました。後に、吉備中山の宗廟の東麓の住居跡に、社が建てられ吉備津彦宮、吉備津彦神社と崇められて来た。
後に神仏習合により、正宮本宮摂末社を合わせて51社になり、神宮寺・神力寺・常行堂・法華堂も建てられ、総括して吉備津宮とも称された。朝廷直属の一宮・吉備津大明神として武門武将庶民に至るまで崇敬頗る厚く、仁明天皇承和10年10月24日神階一品を賜り一条天皇社殿を造營し、白河、鳥羽、高倉、後堀川、後深草、亀山、後宇多の各天皇が何れも勅宣を以て補修せられた。
慶長年間には岡山藩主、池田照直公が社領三百石を寄進し累代変わることなく崇敬厚かったが、池田光政公により現在の地に昔の熱田神宮様式にて社殿建築が着手され、その子綱政の時完成造営された。不幸にして昭和5年12月14日、不慮の火災により本殿と隨神門を残して全部焼失したが、昭和11年飛鳥時代社寺建築の粋を集めた荘厳華麗にして、将来昭和の国宝ともいわれる社殿が再建され、現在に至っている。
当社に参拝された方は分かると思うのですが、拝殿から本殿までの距離が長い事に気付いた方もいるかと思います。建物一つ一つに名称がありまして、一番手前の建物は『拝殿』ですね、二番目の建物は『祭文殿』と言う建物。これは、祭典や御祈祷を斉行する御殿です。続いて三番目の建物は『渡殿』と言う建物。これは、大祭時のお供物をする所言わば、本殿に一番近い所であり、神様へのお願いを最も近くで出来る所です。そして最後は言わずと知れた『本殿』です。
この本殿は、綱政公の元禄10(1697)年に完成した建物で、流麗な三間社流作りの神殿は、飛鳥時代社殿建築の粋がつくされており荘厳華麗にして、吉備国の神社建築が伝統とする『流れ造り』の正統な姿を示す社殿としても貴重な建築物とされています。

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さて、この建築様式どこかで見た事ある方もいるかも知れませんが、そうです。古代の熱田神宮の社殿配置にならい建てられているのです。