安讃備紀行-8

どうも荒川鯉師です。
暫く空けてしまいましたが、いよいよ卒業研究が本腰に入りましたので、アッチコッチで文章を書く機会が増えてしまいました。
そんな訳で、吉備津彦神社を後にした我々は次に向ったのは岡山県の山奥にある閑谷学校に行きました。それではどうぞ。

閑谷学校

閑谷学校は、備前藩主池田光政が庶民の教育を目的として1670(寛文十)年に設立した郷学である。
徳川光圀保科正之とならんで天下の三名君の一人に挙げられた池田光政は、藩政の目標を儒学の教える仁政の実現におき、1641(寛永十八)年には、岡山花畠に儒者を次々と招き、家臣の教育のため全国に先駆けて、1669(寛文九)年には、岡山藩校を城下西中山下に開校した。更に庶民の子弟に及ぼすため、1668(寛文八)年、領内123ヶ所に手習所を設置したが、1657(延宝三)年にはその全てを廃止してこの閑谷の地に統合した。
1666(寛文六)年光政は領内を巡視してこの地にいたり「山水閑静にして読書講学」にふさわしい場所であるとして、寛文十年に仮学校を開設し、この地の旧名「木谷村延原」を「閑谷」と改め、家臣津田永忠に命じて後世にまで残る学校の建築をはじめさせた。
現在目にする事の出来る閑谷学校の姿が完成したのは、光政没後の1701(元禄十四)年、二代目藩主綱政の治世の事で、江戸時代の学校の規模をもっとも完全に残しているものとして特別史跡に指定されている。建築物は講堂が国宝に指定されているものが25件を数える。
閑谷学校の名声は、古くから天下に聞こえていた様で、高山彦九郎・菅茶山・頼山陽大塩平八郎横井小楠などの学者文人も来遊しており、大島圭介など藩外からの来学もあった。
学校は四周を延長765mに及ぶ石塀で囲み、南側に校門(鶴鳴門)・公門・飲室門・校厨門の四門が開き、なかに聖廟・閑谷神社(芳烈祠)・講堂・小斎・習芸斎・飲室・文庫などが配置されている。備前焼の赤瓦がまわりの緑に映えて美しく、石塀と共に閑谷学校に特有の景観を与えている。かつては火除山を隔てて西側に学房(寄宿舎)が置かれていたが、現在は1905(明治三八)年建築の旧私立・公立中学校の校舎であった資料館があり、国の登録有形文化財として関係史料の展示を行っている。石塀の南には東西にのびる泮池があり、重要文化財の石橋が架かっている。更に1.2km南方には当時の校門であった石門が3/4ほど土に埋もれて現存している。
ところで綱政は、元禄十三年閑谷の田畑山林高二七九石の地を永代字田学林とし、万が一国替などの際にも学校経営にいささかも影響を受けない様にとの保証を与えたのだった。しかし明治の廃藩置県・学制の改革等による大変革によって、閑谷学校も他の全ての藩校同様、廃校となった。同時にまた閑谷学校の歴史を閉じてはならないとする旧藩士や民間有志によって、明治六年に山田方谷を迎えて閑谷精舎として再発足し、更に1884(明治十七)年西薇山らによって閑谷黌として復活を見てからは、明治三七年私立閑谷中学校と改称、大正十年には岡山県閑谷中学校となり、多くの俊秀を世に送り出して来た。
戦後、岡山県立閑谷高等学校に続いて和気高等学校閑谷校舎となり、昭和三九年までその中等教育の場として学校の歴史を繋いで来た。現在は和気本荘の地に県立和気閑谷高等学校がその伝統を受け継いでおり、孔子の徳を称え祀る釈菜も、その教職員によって執行されている。
現在特別史跡については、岡山県が管理団体として指定され、財団法人特別史跡閑谷学校顕彰保存会によって顕彰されている。併せて、岡山県青少年教育センター閑谷学校が青少年の研修の場として教育活動を展開している。
(旧閑谷学校説明看板より一部改変)