安讃備紀行-9

どうも荒川鯉師です。
この紀行文は一体いつになったら終わるのか?まだ3日目なんですね。4泊5日したので、まだまだ先は長いですが、ゆっくりゆっくり書いて行きましょう。
そんな訳で今回は、倉敷川畔に広がる蔵屋敷群を紹介致します。それではどうぞ。

倉敷市重要伝統的建造物群保存地区

倉敷川周辺の地域は江戸時代に港町として栄え、この地域に物資を運んでくる運河として利用されていました。
現在の川幅は10m程度ですが、船による物資の輸送がされていた江戸時代には、川幅20m程度あったと言われています。最も栄えていた時期には、40隻程の船が物資の運搬を行っていました。
その後周辺の開拓が進み、船による運搬も制限されるようになり1959(昭和34)年に児島湾締切堤防が作られてから倉敷川は運河として利用されなくなり、機能を失ってしまいました。
1967(昭和42)年に街並みの保存事業が本格的に始まり、1968(昭和43)年に倉敷市伝統美観保存条例」が制定されたのと同時に、日本全国に広がった観光ブームがきっかけとなり、観光地として、伝統美観保全目的として、倉敷川畔の整備が行われました。
1978(昭和53)年に前条例から倉敷市伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定され、1979(昭和54)年には、国から13.5haの地区を重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。
その後も、電線の地中化を1990(平成2)年に行い、風景を江戸時代に極力近づける等、努力をした結果、1998(平成10)年に現行の13.5haから15haに拡大された。現在も江戸時代からの風情を残し、橋や船着場などは修復を重ね、往年の形で残されています。
また、この地域が倉敷と呼ばれるようになったのは、江戸時代の初期頃に倉敷川をはさんで建てられた物資貯蔵用の土蔵のことを 蔵屋敷、倉鋪、蔵鋪、倉子城などの名称で呼ばれており、これが変化して倉敷になったといわれています。
美観地区には工夫の凝らした意匠が多く見られ、最も古い民家型の塗屋造りは井上家で正徳年間(1711〜1716年)に建てられたと推測されています。また、町屋に用いられている倉敷窓や倉敷格子などは江戸〜明治時代のものとされており、これは倉敷独特の意匠です。
塗屋造りとは、町屋に多く見られる構造で、防火対策として隣家と接する両側面と、正面2階部分の外壁全体が、白漆喰仕上にされています。土蔵造り(後述)に比べると、壁の厚みが薄く、建物の正面と背面は木が露出しています。
土蔵造りとは、全体的に土塗り漆喰仕上がされており、多くの蔵でこの構造が見られます。塗屋造りより壁が厚く、高い耐火性能を有しています。内部の柱や梁などには塗りが施されていない為、露出しています。
倉敷窓とは、2階正面に窓が開かれている窓を倉敷窓といいます。角柄窓形式の枠を組み、3〜5本の木地の竪子が入ります。主流は3本の竪子が入るものであったとされています。
ナマコ壁とは、正方形の平瓦を外壁に張り付け、目地を漆喰で盛り上げて埋める手法。この盛り上がりの断面が半円形のナマコ形に似ている事からこの名称が付けられています。このナマコ形の目地は平行に通る一文字目地と、斜めに通る筋違い目地があります。

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いやぁ…閑谷学校から倉敷まで向うのに、下道を走りましたので相当時間が掛ってしまいました。到着した時にはもう18時を回っていまして、あまり多くを見学する事が出来ませんでした。