長野諏訪地方巡拝紀行-3

どうも荒川鯉師です。
2日目に参拝した中で諏訪紀行初となる神社『手長神社』を紹介致します。それではどうぞ。

手長神社


御祭神を手摩乳命(てなづちのみこと)として祀る。諏訪大神の曾祖母にあたる奇稲田姫の母神にあたり、夫神を脚摩乳命であり、家庭円満・子育ての神として崇敬され「おてながさま」として永年親しまれて来た。
神紋は諏訪大社と同様に諏訪梶の葉であり、夫神の脚摩乳命は市内四賀桑原に足長神社として祀られている。(足長神社については後述)
「おてながさま」のそのお姿から、稲を慈しんで育てる農民の姿にも通じる事から、市内を流れる角間川流域に開けた田畑の五穀豊穣を祈念する氏子は多く、秋ともなると大きく育った作物が御神前に供えられる。
また古来より、おてながさまに芸を奉納すると手が綺麗になると伝えられ、境内を初舞台として歌舞を奉納する者は少なくない。

諏訪大社上社社家の矢島権祝家に伝わる『矢島家文書』の「上諏訪神社旧記」には、手長彦神と足長雄神が見え、諏訪大明神に従って諏訪に降りたと伝えており、また旧家に残る郷原家文書』には、諏訪大明神が諏訪に降りた時、当時一面湖水に満ちていたこの地方を手長神に舟を出させて、山並みを切り開かせ水位を下げて開拓を行ったと伝えられる。
他にも『諏訪大明縁起画詞』にも従者として「手長」が登場しており、この「手長」とは手長神では無いかと言われており、諏訪大神の従者の点から柳田国男氏も言及している。

境内近傍に旧石器時代古墳時代の遺跡が上諏訪中学校教諭 林茂樹先生(当時)によって発掘され、旧石器時代の遺跡は群馬県岩宿遺跡に次ぐものであり、一大発見であった。発掘された出土品から考察するに、この遺跡では祭祀遺跡である可能性が高く、この当時からこの地は神聖な土地として現在の手長神社が建立された事は容易に想像出来る。
1591(天正十九)年に高島城が築城されると、この神社が鬼門に当たる事から高島藩主より代々崇敬されて来た。

参考資料
手長神社由緒書(一部文章改変、別表記)