長野諏訪地方巡拝紀行-7

どうも荒川鯉師です。
八剱神社を後にした我々は、諏訪参拝で外してはいけない洩矢神社へ到着。
鳥居前の公民館にいた氏子の方々のご協力を得て駐車させていただき、いざ御参拝へ。

洩矢神


御祭神に洩矢神を祀る。
1356年(延文元)の「諏訪大明神絵詞」によると、古より諏訪には、かつて先住の国津神洩矢神と呼ばれる土着神がいた。そこに、素盞嗚尊の後裔である建御名方命が進軍し諏訪の地へ侵入してきた。

川岸の地で洩矢神は「鉄の輪」を建御名方命は「藤の枝」を持って争ったが洩矢神は命の稜威に服した。その時建御名方命は持っておられた藤の枝を投げた処その枝は根づいて繁茂して藤洲羽の森となったのが現在の荒神塚、藤島神社である。洩矢神建御名方命に服属してその最高の職「神長官」となり建御名方命を助けて諏訪の地の開発につくされた。
氏子は洩矢神の御神徳をたたえるために天竜川をはさみ藤洲羽の森の対岸の地に社を建て洩矢神を祀ったという。

参考資料
洩矢神社境内由緒略記(一部省略・加筆)

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御雷命との国造りによる「力比べ」に屈した建御名方命が諏訪まで逃げ、この地から出ない事を約束し、現在の諏訪大社につながっている。
では、この地から出ない事を約束した後に洩矢神との戦いになったのか、それとも逃亡中に洩矢神と一戦交えたのか。由緒にある「〜建御名方命が進軍し諏訪の地へ侵入してきた。」の記述にはどんな背景があるのか。
確かに洩矢神から見れば侵入してきた様にも見て取れるし、建御名方命から見れば単に逃亡中の身であったのかも知れない。
新しい考え方であれば、逃亡中に洩矢神と一戦交えている内に建御雷命との距離が縮まり、諏訪と言う地で捕えられたと言う考え方をしてもおかしくはないのではないか。
この研究をしている学者先生は今まで数多くの諏訪に関する論文を探してきたが、未だ核心に近づくものは出ていない事から、別のお話と言うくくりでまとまっても良いのだろうか?