復旧作業員としての私

どうも荒川鯉師です。

※註※
ここでは、2012〜2013年当時の岩手県陸前高田市の写真が使用されています。
震災に関して強いストレスや不快感を抱かれる方は、ユーターンをお願いします。
荒川鯉師





























2011年3月11日に発生した東日本大震災から今日で4年が経過しました。今もなお避難生活を送られている方々、福島原発事故の早期解決に向けて作業されている皆さまにおかれましては、この年月の経過は早いと思う方、遅いと思う方さまざまかと思います。

さて、震災発生直後に現地へ赴き、今こそ現場力を発揮するべきだという意見が大学の学生から集まる中、現場へいち早く駆けつけ櫛の歯作戦による啓開活動に従事していた卒業生のサブコンの人が大学に入れた一本の連絡によって事態は大きく変わった。
「毎日襲う強震と消えぬ津波情報、ガレキをどかせばどかすほど死体がでる事を考えると、生徒をここに来させるのは控えたほうが良い。」
と言うものだった。
大学の判断は「大学の主催によるボランティア活動は限定的なものにする。」
であった。仮設住宅の建設やひさしの設置、排水溝や小規模な堆積物の除去などであった。そこにあった条件の中に「要普通自動車免許」と言うものがあったので、当時免許取得中(仮免許)だった私は募集要項から漏れた。
初めて東北へ赴いたのは2012年夏の事である。これは東北でお金を落とそうと言う目的のもと、計画したみちのく岩手紀行で大船渡・陸前高田へ行った時の衝撃は今も忘れることはできず、今からでも遅くはない。何か大学生として出来ぬものかと考え、約1年が経過した2013年に思わぬ形で現実のものとなった。
場所の特定を控えるため詳しくは言えないが、仮設住宅の増設に伴う作業員助勢の要請が大学に入り、出発はそれから3日後の事ではあったが、すべての予定を蹴り飛ばし作業員として東北に行くことを決めた。

早朝、東北自動車道を北上し現地に着いたのは17時を回るところでした。夜は海岸線沿いにある温泉施設に入り、就寝は近所の仮設公民館で全員雑魚寝で過ごした。
次の日から実地作業に入り、造成からプレハブ組立、住民の要望から木造住宅の建築と多岐に渡る作業を行い、1/100でも1/1000でもお役に立てたのではないのでしょうか?
それから2年、あの仮設団地はどうなったのか確認したい思いが強くあるのだが、今は学生から社会人となり時間的拘束は強いものとなっています。しかし、作業した張本人として経過を見る確認する義務は必ずしも必要なのではないでしょうか?必ず、必ず4年経った被災地を五感で感じ取り、自分にとって何が必要なのか考え直したいと思います。