郷土史研究5

どうも鯉の子です。
志木市の荒川堤防に行った事のある人なら一回は目にした事のあるのではないのでしょうか?河道に対して垂直に延びる堤防の存在を…一体何の為にあるのか?「水防上無意味な存在なのでは?」と思った方もいるかと思いますが実は水防上重要なものだと言うのは実はあまり知られていないのです。
そこで今回の郷土史研究はこの謎の堤防について研究発表したいと思います。
この堤防にもきちんとした名称があります。それは『横堤』ーよこていーと言います。高さは4mほどで、建築当初の記録では長さ510.55m。実はこの横堤、荒川流域独特の水防工法なのです。同じ水防工法としては木曽川流域の猿尾堤と言われているものです。(同じ水防として水塚と水屋(両方洪水避難所)の違い。)ではこの横堤がいかに発揮されるのか歴史と共に見て行きましょう。
『横堤が発揮されるのは主に洪水時。荒川はその昔、雨、多シトナルト荒ブレル川ナリと言う所から=荒川と言う名前になってしまうほど洪水常習犯でした。そこで堤防を構築するのですが惣囲堤(一般的には輪中堤と言うが志木地方では惣囲堤と呼ぶ。)では洪水の度に破堤し明治43年の洪水では埼玉県内だけで死者324人、洪水被害住宅10万2,685戸、破堤箇所945ヶ所と最悪の洪水となりました。そこで明治政府は洪水常習河川に新堤防及び河川改修をする事にしました。この地域では新河岸川河川改修と荒川放水路(赤羽岩淵〜荒川河口)工事。そして大規模河川堤防工事でした。その中にも荒川は含まれ大正9年(1920)から昭和29年(1954)にかけて堤防が築造しました。
その中で昭和6年に上流から南畑横堤(羽根倉橋)、宗岡第二号横堤(細田学園グランド横)、宗岡第三号横堤(旧秋ヶ瀬橋にあった。今は堤内のみ。)と出来上がって行った。
その効能は上流からの洪水流を受け止め下流の被害を軽減することと、流速を減速させ河川敷や耕作地を保護する工法。と言われています。この横堤完成後、荒川流域で次々と造られました。要するに宗岡の横堤はお初と言う事になります。
その後の洪水でも発揮され今現在に至っています。なお埼玉県吉見町、鴻巣市の間を流れる荒川の川幅(堤防〜堤防間2,537m)は日本一となっていますがそれは荒川下流域の洪水低減と横堤による遊水地帯の確保による為あの様な広い川幅が生まれました。』
どうでしたか?ちょっとしたレポートぐらいありますが読んでいただけたでしょうか?小、中学生の郷土に関する調べ学習発表会用資料としては十分でしょう。どうぞ勝手にお使い下さい。ただし読めない漢字は自分で調べましょうね。

年表

  • 明治43年(1910) 8月・房総半島に台風が接近。関東一帯に豪雨をもたらす。(関東大水害)
  • 大正2年(1913) 赤羽岩淵〜中川河口にかけて放水路工事を開始。(荒川放水路)昭和5年(1930)に完成。
  • 大正7年(1918) 荒川上流域の河川改修工事を開始。
  • 大正9年(1920) 荒川全体に連続堤(今の堤防)の工事開始。昭和29年(1954)に完成。
  • 昭和4年(1929) 南畑横堤、宗岡第二号横堤、宗岡第三号横提築堤工事に着工し、昭和6年(1931)竣工(完成)

明治43年の関東大水害の被害状況(関東平野全域)

  • 死者・行方不明者数1,379人
  • 全壊・流出家屋約5,000戸
  • 床上・床下浸水約51万8,000戸
  • 堤防決壊7,266箇所

(本文中の洪水被害住宅は上記の全壊・流出家屋、床上・床下浸水を指す。)

(写真説明)
南畑横堤と羽根倉橋、
宗岡第二号横堤  宗岡第二号横堤末端
元宗岡第三号横堤跡地  堤内に残る宗岡第三号横堤

 

【参考文献及び出典】
安斎達雄「荒川独特の治水施設−横堤を考える−」
『郷土志木』第34号(志木市郷土史研究会 2005)
『荒川上流改修80年の歩み 澪(みお)』(建設省荒川上流工事事務所 2000)
河童のつづら
より参考にさせていただきました。