郷土史研究31

どうも鯉の子です。
志木市を流れる新河岸川『柳瀬川』の合流地点において大規模な護岸改修事業が行われております。この件に関しては、『河川との新しい付き合い』2011-04-13)にて掲載されていますので、ご参照の事と思います。と言いますのもこの改修事業は、埼玉県が平成20年度から行っている『水辺再生100プラン』事業の一環で完成したあかつきには埼玉県上田清司知事を招いて(とは言っても地元に住んでいますが…)『川の国埼玉宣言』を3月25日に行うそうなので暇な方は見に言ってみるのも良いかと…
さてそんな再生事業が行われている新河岸川には、古く『舟運』が通っていました。それは、この郷土史研究シリーズに数多く出てきており、志木市を語る上でなくてはならない『鍵』を担っているものです。普通第一回でしなくてはいけないモノなんですが、まぁ今回やっと掲載にごぎつける事が出来ましたので、それでは舟運によって繁栄を極めた志木市に置かれていた河岸場(船着場)『引又河岸』です。どうぞ。

引又河岸(明治7年から志木河岸に改名)

そもそもなぜ新河岸川に舟運が開通したかと言いますと、1638年(寛永15)の正月に発生した『川越大火』により焼失した東照宮喜多院を再建する為に資材を江戸から川越に運ぶ最も効率が良い方法として、新河岸川を利用した舟運が始まりと言われています。川越に新しい河岸場=新河岸川と言う名前になりました。
さて本題ですが、引又河岸は江戸〜川越間の計20河岸場の一つであり、江戸時代後半から大正にかけて、この舟運の恩恵を受け今では想像も出来ない様な繁栄を極め、江戸・川越に次いで引又は貨物の積み降ろし量は群を抜いていた。その証拠に、引又河岸問屋の取引先として埼玉所沢・東京青梅そして山梨甲府からも取引が来ていた記録が残っており引又河岸の大きさを伺う事が出来ます。
荷物の内訳として、川越→江戸方面へは穀物・材木・薪炭・ソーメン・ゴザ等』、江戸→川越方面へは、『肥料・塩・太物・小間物・雑貨・錦糸・石材等』が主に運ばれていました。引又河岸で扱われた貨物は、近隣・所沢・青梅・八王子方面穀物・小麦粉・薪炭・壁土・織物・さつま芋』であり、甲府からは『ブドウ・生糸』が荷扱いとして取り扱っていた。また、静岡熱海から樽詰めされた温泉が引又河岸経由で町内や所沢の一部住宅に配られたそうです。それまで貨物中心だった舟運も、天保年間(1830〜1840年)からは乗客も運ぶようになりました。
舟の運送には『飛切・早船・並船』3種類ありまして、今で言う電車の快速・急行・各停の違いみたいなものです。並船は、荷物が満載するまで積み込んだので、一番時間がかかり引又→江戸(浅草)間を3日〜5日かかったと言われています。早船は15時間、飛切は13時間を要しました。乗客を乗船させるのは早船か飛切とされていました。
引又河岸において回漕問屋と言われる舟運のエキスパートがいまして、『井下田・川上・高須』家の三軒で、その中でも川上家の自由民権運動の旗頭』や井下田家の『東上鉄道(現:東武東上線)の志木駅誘致』などこの地域に大きく貢献してきていたが、それは舟運に集まってくる様々な最新情報をキャッチしていたからかも知れません。
新河岸川舟運の衰退として、明治から大正にかけて全国に広がった『鉄道の開通』が大きな要因と言えるだろう。上記にも記した様に『東上鉄道の開通』は同時に舟運の終焉を意味していた。時代は舟→鉄道と睨んでいた井下田家は先祖代々から受け継ぐ回漕問屋をたたみ、鉄道貨物運送業へ転進した。鉄道は、多くの荷物を短時間で長距離運べる為、舟運は到底太刀打ちできる相手ではなかった。こうした時代背景と、舟運の命とも言える蛇行した新河岸川を直線化する改修工事が行われた為、新河岸川水量は河床が見えるほど低下し舟運は困難を極め、ついに昭和6年に埼玉県から通運停止令が出た事により300年続いた新河岸川舟運にピリオドが打たれました。
そこから志木市(旧:志木町)は、かつての繁栄の栄光は消え失せてしまったのである。その理由は『かつての商業地区は、川の周囲にあり鉄道は郊外の畑の中に出来た為、商店の人は移動が容易ではなかった事。』が挙げられる。東上鉄道が郊外を通っている理由は『舟運業からの批難を回避する為』と言われており事実、新河岸川から遠く離れた所に東上鉄道が通っている事がわかる。本来は、新座市大和田を通り、川越街道沿いに造られるはずが、井下田氏の誘致で志木に近づいた。しかし、舟運業がそれに難色を示し結局今の所で開通させた。しかし現在では、それ自体が近隣の不便さをつくっているのである。(志木宗岡地区・富士見南畑地区・朝霞内間木地区etc)また過去に繁栄していた商店も、今では人の流れは駅前に集中しているので閉店している商店が相次ぎ、昔はあれだけ美しかった店蔵街が今は取り壊され、無機質なRC造の建物や空地、マンションへと変化している。

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『舟→鉄道へと移り代わる』確かにそうですよね。当時は志木〜浅草間を13時間で結んでいた所を、今では志木〜浅草間を最速48分で結んでしまうのですから…時代の流れと言えばそれまでなのですが、やはり技術の向上は生まれ来るものの代わりに何かが消えてしまうのでしょう。何時かは『鉄道→どこでもドア』と言う感じになっていくんじゃないですか?そこまで来たら『旅』と言う言葉は死語になるんじゃないでしょうかね…。