郷土史研究22

どうも鯉の子です。
台風の季節ですが、冬に近づくにつれて空気が乾燥しますが、そんな時怖いのが『火事』ですよね。
さて今回は、季節は逆になりますが春に発生した志木市大火』についての紹介です。

志木市大火

1975年(昭和50年)それはまだ新河岸川の桜が舞う4月11日、夜遅くに志木市本町2丁目の木造住宅密集地から火が出ているとの通報があった。市内の消防車や近隣市町村からの応援車両11台、指揮車3台、当時まだ普及していなかった救急車1台が駆けつけるなど周囲はものものしい雰囲気に包まれた。火は消防車が入れない路地裏の木造住宅を次々に飲み込み、辺り一帯を赤く燃やし尽くしようやく鎮火したのは次の日の明朝であった。被災したのは42世帯141人、全・半焼域は約3000㎡。
その後、燃えた残骸を撤去するのに志木市役所に設置された災害対策本部は陸上自衛隊朝霞駐屯地自衛隊派遣を要請。自衛隊員と重機、大型トラックを大量投入し、撤去作業にあたった。しかしこの地区は前にも述べた様に、路地裏が入り組んだ土地であり、重機や大型トラックが入らない所では、自衛隊員による人海戦術をフルに使い作業にあたった。また本火災は武蔵野台地と柳瀬川低地の境で発生した火災の為、高低差が最大約5mもあり、武蔵野台地側で燃えた建物は柳瀬川低地へ落とし、撤去されたそうです。
その当時の新聞記事には自衛隊が残骸を撤去している写真が印象的である。
それと平行して、火災調査官の下、聞き込みや燃え方などから失火原因を割り出した所、とある民家の燃え方が激しい事から、そこの住人に話を聞いた所アイロンを使用しており、アイロンの異常加熱が今回の火災を招いたと結論付けた。

〜参考資料〜
志木市
・埼玉タイムス(昭和50年4月20日付)

                                      • -

まぁこれには続きがありまして、まぁ ―ちと問題になるので省略― なんとも後味の苦い調査書(レポート)になりました。と言っても今からそこの住人に「なんでそんな事をしたのですか?」なんて聞けませんから…実際に被災した人じゃないとその心傷が分かりませんので…