浅間神社巡拝紀行3(最終回)

どうも荒川鯉師です。
さて、浅間神社巡拝紀行も最終回となりました。
最後は『須山浅間神社を紹介致します。それではどうぞ。

須山浅間神社


御祭神は木花咲耶姫命を祀る。
当社は、須山口登山道の起点となった神社であり、古くより須山口登山道を通って山頂を目指した登山者が、禊を行い登山の安全などを祈願しました。
社殿旧記によれば、日本武尊が東征した際に創建したと伝わり、欽明天皇十三(552)年に蘇我稲目が再興したとされています。覆殿の中にある現在の本殿は、

江戸時代後期の文政六(1823)年に建立されたと伝えられています。また、拝殿手前右側の覆屋の中には古宮とよばれる小社が安置されていて、慶長十六(1611)年に建立されたものと考えられています。
社叢には、樹齢400〜500年以上とされる20本程の杉の巨木があり、目通りの太さが周囲7m程のものもあります。これらの木は、神社の存在を証明する大永四(1524)年の棟札とともに須山浅間神社の歴史を物語り、厳粛な雰囲気を漂わせています。

富士山の歴史を物語る上で必要な神社や登山道が、史跡「富士山」として国の文化財(史跡)に指定されました。須山浅間神社は、信仰面での富士山の顕著な普遍的価値を証明する上で不可欠な資産であることから、境内地と社叢が平成23年2月7日に国の文化財(史跡)に指定され、現在に至っています。

※出典※
静岡県裾野市HP

静岡浅間神社巡拝紀行2

どうも荒川鯉師です。
次に向かった浅間神社は…と言いますが、実は一つ非公表とさせていただきます。
参拝したのは良いのですが、神社から去る時にまるで待ち構えていたかの様に初老の男性が現れ「信仰していますか?」と話しかけられ、「このブレスレットが〜〜」「神社の名前を聞けばそのパワーが私に〜〜」と始まったので右から左に受け流していました。時折古事記日本書紀に関することを話したのでそこはミツに話しましたが…。
そんな訳で二社目に参拝した浅間神社は失礼させてもらって、三社目に参拝した神社『米之宮浅間神社を紹介したいと思います。それではどうぞ。

米之宮浅間神社


御祭神に木花開耶姫命境内社に福寿祭神・大国主大神・事代主大神を祀る。本殿の様式は流造となっている。
当社古記録によれば、第四十代天武天皇の時代、今より1320年前の白鳳四年に天皇勅使御光臨なされたとあり、当神社の創建はそれより以前である事がわかるが、詳しい創建などは分かっていない。

また、別の古文書には「富士山の御事は〜(中略)〜神代雲霧に囲まれ諸人これを拝することを得ず富士と唱へざるのみ 以に米穀山と申し奉り 人皇第六代孝安天皇の御字 庚申に当たりて御出現まし日の本の人是を拝す 慈に同国の南面加島の郷に鎮座し給ふは別て御徳たかく 米之宮仙間木花開耶姫命にてまします…云々」とあり、更には当社祭神が万人に米食の副田を与え恵み給う神であり、それ故に当社を「米之宮」と称し崇め祀ったと記されている。

※出典※
米之宮浅間神社略記
上記の出典・引用より加筆・修正しております

※お知らせ※

写真に関しての質問にはお答えしませんので、予めご了承下さい。なお、文章の誤字・脱字等にはお答えし、直させて頂きます。
また、神社境内で撮影された写真は全て神職の了承を得て撮影されたものであり、無許可にて撮影されたものではありません。

荒川鯉師 

静岡浅間神社巡拝紀行1

どうも荒川鯉師です。
ずいぶんと間が空いてしまいましたが、不定期掲載のブログなのでどうぞお許しを。
さて、去る4月9日に(不自然な)休みが入ったため、霊峰富士山を拝する神社である浅間大社・神社を回ろうと計画し巡拝したのでした。
そんなこんなで紹介したいと思いますのでどうぞ。

富士山本宮浅間大社


主祀神に木花之佐久夜毘売命相殿神瓊々杵尊大山祇神を祀る。
社殿の造りは浅間造と言われ、社殿の上にさらに別の社殿がある二重構造の建築様式であり、数多くある神社建築としては特殊な形式である。
古来より富士山は神の鎮まる山として、多くの信仰を集め現代に至っている。社伝によると第七代孝霊天皇の時代(孝霊天皇五年)に富士山が噴火し国中が荒廃したため、第十一代垂仁天皇三年(紀元前27世紀)浅間大神を山足の地にお祀りし、富士山の山霊を鎮めた。
第十二代景行天皇四十(110)年に日本武尊浅間大神を山宮(現在の山宮浅間神社)に遷し、壮大な社殿を営んだ。

大宮の地は富士山の湧き水が豊富に流れ込む地であり、富士山の噴火を鎮める水徳の神を祀る場所に最も適していた。
全国に1300社以上ある浅間神社総本宮であり、富士山に対する日本人の信仰の厚さが伺える。その信仰は鎌倉時代に修験者が修行の一環として登山した「富士行」が創始されたのが始まりとされ、その後一般信者も登山出来る様になり、また食行身禄と言う行者が烏帽子岩で断食を行い、後に入定した事で富士登山は江戸時代にピークを迎え、特に江戸では富士講と呼ばれる講が爆発的流行を見せた。

奥宮が鎮座する富士山頂から八合目までは奥宮の境内であり、決して他の侵害を受けてはならない。この事実は財務省東海財務局の最高判決により決定されている事を皆様にも知ってもらいたい。

※出典※

  1. 富士山本宮浅間大社紹介パンフレット
  2. 神社辞典(成美堂出版 2013.1.1)

上記の出典・引用より加筆・修正しております。

※お知らせ※

写真に他の人が写りこんでいますが、その場所の様子や風景を知ってもらうために画像にモザイク・黒線等の加工はしません。その画像によって生じた毀損・損害等の責任は一切負いません。また、写真に関しての質問にはお答えしませんので、予めご了承下さい。なお、文章の誤字・脱字等にはお答えし、直させて頂きます。
また、神社境内で撮影された写真は全て神職の了承を得て撮影されたものであり、無許可にて撮影されたものではありません。

荒川鯉師 

復旧作業員としての私

どうも荒川鯉師です。

※註※
ここでは、2012〜2013年当時の岩手県陸前高田市の写真が使用されています。
震災に関して強いストレスや不快感を抱かれる方は、ユーターンをお願いします。
荒川鯉師





























2011年3月11日に発生した東日本大震災から今日で4年が経過しました。今もなお避難生活を送られている方々、福島原発事故の早期解決に向けて作業されている皆さまにおかれましては、この年月の経過は早いと思う方、遅いと思う方さまざまかと思います。

さて、震災発生直後に現地へ赴き、今こそ現場力を発揮するべきだという意見が大学の学生から集まる中、現場へいち早く駆けつけ櫛の歯作戦による啓開活動に従事していた卒業生のサブコンの人が大学に入れた一本の連絡によって事態は大きく変わった。
「毎日襲う強震と消えぬ津波情報、ガレキをどかせばどかすほど死体がでる事を考えると、生徒をここに来させるのは控えたほうが良い。」
と言うものだった。
大学の判断は「大学の主催によるボランティア活動は限定的なものにする。」
であった。仮設住宅の建設やひさしの設置、排水溝や小規模な堆積物の除去などであった。そこにあった条件の中に「要普通自動車免許」と言うものがあったので、当時免許取得中(仮免許)だった私は募集要項から漏れた。
初めて東北へ赴いたのは2012年夏の事である。これは東北でお金を落とそうと言う目的のもと、計画したみちのく岩手紀行で大船渡・陸前高田へ行った時の衝撃は今も忘れることはできず、今からでも遅くはない。何か大学生として出来ぬものかと考え、約1年が経過した2013年に思わぬ形で現実のものとなった。
場所の特定を控えるため詳しくは言えないが、仮設住宅の増設に伴う作業員助勢の要請が大学に入り、出発はそれから3日後の事ではあったが、すべての予定を蹴り飛ばし作業員として東北に行くことを決めた。

早朝、東北自動車道を北上し現地に着いたのは17時を回るところでした。夜は海岸線沿いにある温泉施設に入り、就寝は近所の仮設公民館で全員雑魚寝で過ごした。
次の日から実地作業に入り、造成からプレハブ組立、住民の要望から木造住宅の建築と多岐に渡る作業を行い、1/100でも1/1000でもお役に立てたのではないのでしょうか?
それから2年、あの仮設団地はどうなったのか確認したい思いが強くあるのだが、今は学生から社会人となり時間的拘束は強いものとなっています。しかし、作業した張本人として経過を見る確認する義務は必ずしも必要なのではないでしょうか?必ず、必ず4年経った被災地を五感で感じ取り、自分にとって何が必要なのか考え直したいと思います。

東京大空襲

どうも荒川鯉師です。
本日10日は東京大空襲から70年を迎える今日、私の親戚(墨田区)をはじめ、多くの命を一夜の内に奪った忌まわしい日である。
東京大空襲の日、現地の墨田区と実家の埼玉県志木市の様子を過去の記事に記載されています。(東京大空襲
戦火に焼かれ黒焦げた親戚の墓はきれいな大理石に建て替えられ、2つ隣の戦火に焼かれた無縁墓地は一層風化の様子を見せ、もはや墓なのか砂山なのかわからない。それほど70年と言う月日の流れは長いものなのか。
近年稀にみる世界情勢の悪化を見ると、世界戦争は60〜65年周期で訪れると断言した高校教諭の話を思い出す。しかし、武器を持たず持たせず解決する方法はないのだろうか?隣国からの攻撃を防ぐことはできないのだろうか?簡単な問題に見えて難しい課題です。

タマちゃんを今考える・・・

どうも荒川鯉師です。
ペンネームに荒川とうたっている以上、荒川で起こった出来事は大半出くわしています。
そんな中で一番の衝撃だったものは『タマちゃん・あらちゃん・イノシシ』です。他にも野焼きの延焼火災や土座衛門など…さまざまな様子を魅せる荒川(河川敷)は、神奈川県に引っ越してから気付き、その魅力は増すものです。
さてそんな中、東方茨歌仙 Wild and Horned Hermit.6(原作:ZUN 漫画:あずまあや)に「〜〜人間と一緒に居た頃が忘れられず再び河に行ってみたら 既に人間に忘れられていた――」と言うお話があり、恐らくタマちゃんがモデルと考えて間違いなさそうです。
そんなことで、これを機にタマちゃんについて自分史も兼ねて書き起こしてみようと思います。
最初タマちゃんが多摩川に現れたのは2002年8月のこと。突如現れた珍客に河川流域はお祭り騒ぎとなった。汚いイメージの都市河川に現れたためか、網で捕まえて海に戻す派と事を考え静観した方がいい派が現れ、両者で言い争いになり警察が動く事態になった事を記憶している。その後、鶴見川などを経由し2003年4月に秋ヶ瀬橋と武蔵野線荒川橋梁の間にあるボート係留場に現れた。
そこからが凄かった。連日の車、車、車の列、中継車に観光バスと、とにかく志木・朝霞の道路は連日渋滞をみせた。車で秋ヶ瀬橋を渡るには通常数分も掛からないがあの時ばかりは1時間掛かっても進まない状況にあった。同時に違法駐車や無許可での火気使用(BBQ・キャンプ)も目立つ様になり交通機動隊が連日、川に出向いていた。
当時、小学生の私は秋ヶ瀬橋下の旧船着き場で吸い込み釣りと言う鯉釣りに使う数本の針が付いたものを使用していたが、あの時あんな事になるとは予想もしていなかった。と言うのもタマちゃんのこめかみ辺りにその吸い込み釣りの仕掛けが引っ掛かると言う事件(?)が発生した。それと同時かちょっと経ってから「タマちゃんを見守る会」を名乗る中年男性3〜5名が、その吸い込み釣りをしている私と周囲で同じ釣りをしていた人に向けて罵声を浴びせ石を投げつけてきたのである。小学生であった私は怖くなり葦の茂みに隠れ、他の釣り人数がそれに応戦。むなぐらのつかみ合いになっっていたのを今も鮮明に覚えているし、茂みに隠れた際に左手首に刺さった葦の傷跡がその当時の恐怖を物語っている。
近くには多くの警察がいたので騒ぎを聞きつけ静止に入り、報道陣も多く駆けつけていた。その時、フジテレビ(?)に取材を受けた記憶も残っている。でも、テレビで報道されたと言う記憶は皆無であり、この事を親に話しても一切信用されなかった。
そんなこんなでタマちゃんフィーバーが冷め始めた2004年2月頃、その頃になってやっとタマちゃんを見に行った。地元を混沌の渦に貶め、人々を狂乱させたアゴヒゲアザラシは荒川のウナギを食べまん丸に太っていた。タマちゃんの近くに住んでいたホームレスも、写真売りをやめ(どうやって写真を入手したのかは不明)いつもの釣り人に売るミミズ売り(カップ持参500円)に戻っていた。話をすると「この1年間は夢を見ている様だった。」と話していた。それだけ儲かったのだろう。タマちゃんを観ている人は私を含め2〜3人だった。テトラポッドに上って近場で見てもタマちゃんは逃げず、大変人馴れしていた。そして私をジーッと見て目を細めていた。まるで謝っている様な感じだった。その時のタマちゃんをフィルムカメラで撮ったが、その写真もフィルムもどこに行ったのか分からない。大変もったいない事をした。
それを最後にタマちゃんは姿を消したのである。
ある釣り人は笹目橋下で死体があがったと言うもの、新河岸川で見たと言うもの、秋ヶ瀬取水堰の水門に挟まっていたと言うもの多くいたが真意は全くの不明である。
東方茨歌仙の話が本当だとすると、一回荒川に帰って来たのか?だとすると、あのクルーザーは違うクルーザーになっているし、私が避難した葦のり面も自然風護岸に変わっている。浚渫も行っていたので河床も変わっているのではないか?おかげで鯉の回遊ルートが変わってしまい、探し出すのに半年を要した。全てがあの時とは違う様子なのである。それに愕然として幻想入りしてしまったとなると、なんとも残念である。

荒川三大驚愕のイノシシに関しては、
http://d.hatena.ne.jp/b01012045/20120302/1330679726「昔こんな事がありました」をご覧ください。

東京十社巡拝紀行

どうも荒川鯉師です。
去年の今頃から年末にかけてと長い時間を掛けて東京十社を巡拝しました。
順序や時間列はバラバラですが、それでもよろしければどうぞご覧ください。

東京十社巡拝

王子神社


御祭神は伊邪那岐命伊邪那美命天照大御神速玉之男命事解之男命を祀る。
1323年(元亨二)、当時この地を治めていた領主豊島氏が紀州和歌山県)の熊野大権現を勧請し、若一王子宮と奉斎したのが始まり。この地の『王子』とは王子宮からの名称である。
後に徳川家康公が将軍家祈願所と定め、歴代将軍の信仰は大変厚く八代将軍徳川吉宗公が1738年(元文二)に飛鳥山を寄進し、以降王子権現と飛鳥山の花見は江戸名所として現代まで語り継がれている。
古より語り継がれている田楽舞は、戦前に『喧嘩祭』の異名で有名だったが、いつの頃か廃れてしまった。そこで氏子衆が結集し1984年(昭和五十一)に復元され、現在では北区無形文化財に指定されている。


白山神社


御祭神は菊理比竎命・伊弉諾命・伊邪那美命を祀る。
949年(天暦二)、加賀(石川県)一宮白山神社を現在の文京区本郷に勧請したのが始まり。1338年(建武四)、足利尊氏公の命により国家平安祈願所となり、その後1517年(元和二)に徳川秀忠公の命により巣鴨原へ遷座したが、1652年(慶安四)に徳川家綱公の用地となり、1655年(明暦元)に現在の地に落ち着いた。
徳川綱吉公と生母桂昌院の信仰を受け、小石川の鎮守となる。
近年に入り、境内にアジサイを植え6月ともなれば群れ咲き、紫陽花神社として都心の新名所となっている。


根津神社


御祭神は素戔嗚尊大山咋命誉田別命大国主命菅原道真公を祀る。
景行天皇の御代である日本武尊駒込の地に創祀し、1469〜1487年(文明年間)に太田道灌氏が社殿を奉建した。
現在の社殿は1707年(宝永三)に徳川綱吉公が嗣子家宣の氏神社として当地に奉建したものであり、その当時の唐門・透塀・楼門等の全てが現存しており、国の重要文化財に指定されている。また、祭礼は天下祭として現代に伝わっている。
境内は7千坪あり、古くよりつつじが岡と字が残り、今でも数千本のツツジが咲き乱れる。


亀戸天神社


御祭神は菅原道真公を祀る。
1662年(寛文二)に菅家の後裔である菅原大鳥居信祐公が九州(福岡県)の太宰府天満宮よりこの地に勧請したのが始まり。
地形をはじめ社殿や楼門、太鼓橋など境内の結構を全て太宰府に倣って造営されている。
創建当初より亀戸宰府天満宮とも号され、朝野の信仰も厚くまた、行楽の名勝地としても喧伝され杖をひく人跡を絶たない繁栄を見せ、江戸庶民信仰の根源として関東天神信仰の中枢を占めている。
春は梅花に藤の花、秋は菊花――
四季折々の彩はまさに『花の天神様』と言うにふさわしいのではないか。


富岡八幡宮


御祭神は応神天皇神功皇后仁徳天皇、天照皇大神常磐社神、武内宿祢命、日本武尊天児屋根命、竈大神を祀る。
1627年(寛永四)に創建され以来、深川・新川・箱崎の氏子を始め、広く人々の崇敬を集めている江戸最大の八幡様で「深川の八幡様」と親しまれている。
八幡宮の祭礼は、深川八幡祭りとして江戸三大祭の一つとして氏子町内神輿120数基による勇壮な水掛け祭りが知られている。
1991年(平成三)に復活した御本社神輿は台輪幅五尺(約166.5㎝)の日本一の黄金神輿である。また、江戸勧進相撲発祥の地でも知られ、歴代横綱の名を記した横綱力士碑がある。


神田神社


御祭神は大己貴命少彦名命平将門命を祀る。
730年(天平二)に出雲族真神田臣が祖神大己貴命を現在の皇居大手門付近に祀ったのが始まり。その後、時宗真教上人により平将門公が合わせて祀られて以来、江戸総鎮守神田明神として広く庶民の信仰を集めた。
1616年(元和二)に江戸城改築の際に、艮の鬼門の守護神として現在地に遷座され、歴代将軍家の崇敬厚く、特に神田祭は天下祭として現在に至っている。
その後、明治天皇の御親拝を仰ぎ、現在は東京の中心108町の氏神として崇められている。


日枝神社


御祭神は大山咋神、国常立神、伊弉冉神、足仲彦命を祀る。
創建の年代は不詳であるが、1478年(文明10)、太田道灌公が江戸城築城にあたり、川越(埼玉県)の喜多院の鎮守である川越日枝神社江戸城内の紅葉山に勧請したが始まりとされる。
1590年(天正十八)に徳川家康公が江戸城入府の際に将軍家の産土神と崇め、社殿を造営し神領を六百石寄進した。天下祭の一つとされる天王祭は御用祭とも称され、日本三大祭の一つである。
1868年(明治元)の東京遷座と共に准勅祭社とされ、皇城の鎮護の神として官幣大社に列せされた。その後は武蔵野の開拓や大江戸の鎮護の神として広く都民の崇敬を集めている。


赤坂氷川神社


御祭神は素盞嗚尊、奇稲田姫命大己貴命を祀る。
創建は951年(天暦五)に赤坂一ッ木に創建したのが始まり。江戸幕府の崇敬篤く、紀州徳川赤坂屋敷(旧赤坂離宮)の産土神の由縁によって八代将軍徳川吉宗将軍職を継ぐに至り、1729年(享保十四)、赤坂今井台に神徳を謝し現社殿を造営、八代により徳川家茂公まで歴代の直拝朱印状が納められている。
1952年(昭和二十七)に社殿、1954年(昭和二十九)に東京都指定文化財に指定されている。


芝大神宮


御祭神は天照皇大神豊受大神を祀る。
1005年(寛弘二)に創建したのが始まり。古くは芝明神と称していたが、1872年(明治五)正式に官許(政府が特定の人や団体に特定の行為を許すこと。:大辞泉より引用)され、芝大神宮に改称された。
歌舞伎で有名な『め組の喧嘩』はこの神社で発生したものであり、乱闘要因を招集する為に使用した半鐘を島流しにするなど厳しい勘定が行われた。



※お知らせ※
写真に他の人が写りこんでいますが、その場所の様子や風景を知ってもらうために画像にモザイク・黒線等の加工はしません。その画像によって生じた毀損・損害等の責任は一切負いません。また、写真に関しての質問にはお答えしませんので、予めご了承下さい。なお、文章の誤字・脱字等にはお答えし、直させて頂きます。
荒川鯉師 

※引用※
東京十社配布「東京十社めぐり」内文章
各神社配布資料